「國立の事業」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國立の事業」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國立の事業

治者を官と云ひ被治者を民と云ひ官民を合したる一体を國と云ふ例へば今日俗間の稱呼に

於て政府の手にて管理する學校を官立學校と唱へ人民の私に設けたる會社を民立會社と稱

し官民公共の銀行を國立銀行と云ふを見ても亦其一斑を知る可きなり盖し人事は樣々にし

て官の手を以て管理するの周到なるに若かざるものあり或は又人民の私に任するの得策な

るに若かざるものありと雖ども事柄に因りては官民公共所謂國立の資格を有せしむるを以

て最も適常なりとするものなきに非ず然るに今日我國の實際に於ては官民共同と云へる思

想甚だ乏しく一般人民は官の事業に對して利害の關係甚だ薄く遠國の人が他郷の祭禮を見

物すると一般、雲烟過眼初より之に關心することなく又官の方にても一般人民の事業に關

しては思ひの外に無縁故の待遇を爲すが如き塲合少なからず斯くて官民相對して互に共同

の事業を談せず其極端の事例を云へば双方相謀りて事を與にするに引替へ或は一方の事業

の性質如何に拘はらず暗々裏に其不利を顧みざる等の僻見僻行なきを期す可らず例へば近

來世に演劇改良論あり朝野の貴顯紳士が珍らしく打揃ふて共に之を賛成し共に其改良を謀

るを見て或る一部の人は暗に之を喜ばずコレ式の事に貴顯紳士が打揃ふて手を煩はすにも

及ぶまじと云ひ改良と云へば政治上其他に一層必要なる改良もあるべきに彼を後にして此

を先にするは奇怪なりと嘲り社會改良と政治改良とは其趣稍異なるを知らずして謂れもな

く之を阻止せんと試むるものあるが如し肛門の狹きとや云はん、眼孔の小とや申すべき、

世に斯かる人物多くして官民共同事を與にするの美風を遮りたらんには所謂國立の事業を

起して公共の便益を謀ること思ひも寄らぬ事なる可し現に今日の處にても西洋諸國にては

公共の便益を目的とする事業にて所謂國立に係るもの少なからずと雖ども我國にて國立の

名を冠す可きものは彼の國立銀行の外、別に其物ありとも思はれず遺憾千萬と申す可きな

り今試に我國の状勢を察して社會公共の便益を目的とする事業即ち國立に屬すべき事業に

て施設の急を要するものありや如何と云ふに其事多々枚擧するに暇あらずと雖ども我輩の

所見にて最急要なりと信ずるものは我商工業を奬勵するの方便として國立美術舘及び國立

輸出品見本縱覽所を設置すること即ち是なり凡そ美術を奬勵する其道固より多端なる可し

と雖ども古今名工巨匠の手に成りたる品物を網羅して其意匠風神の存する所を示し以て後

進美術家の智巧を發達すること最も簡便有益なるが故に西洋諸國にては美術奬勵の方便と

して到る處に觀古美術舘の設けありと云ふ我國の如き美術智巧の事は古來割合に發達して

時に名工巨匠を出し彫刻圖畫等傳神の妙を得たる者今尚全國到る處に散在し特に帝室の敕

封庫大寺巨刹及び貴人名流の家には拔群絶類の古美術品を存することならんなれば我國に

て一旦國立美術舘を設けて之を網羅したらんには後進美術家の智巧を進むること中々鮮少

ならざる可し又目下我國の商人は一般に外國の事情を知らず外國貿易の局に當るものにて

も如何なる品物が外國人に適して大小精粗如何なる工合が彼地の流行に應ずるや其邊の事

情に漠然たるが故に陶器を輸出すれば恰好模樣色彩等徃々彼れの意に適せず布帛を輸送す

れば其寸尺等外國向きに適せず其他凡百の商品を撰定するに總べて日本流の考を以てして

風俗習慣を異にする外國人向きに適せんことを謀るが故に毎度失敗して海外の嘲笑を招く

のみならず資本不足なる我國の商人等は此一敗に避易して怱ち収縮するもの少なからずと

云へり左れば此等の人々の便宜の爲め我國に國立の輸出品見本縱覽所を設け毎便船に西洋

各國の流行品見本を取寄せ海外輸出に適する物品の恰好摸樣等を調査して之を一般人に示

すときは其向きの人も幾分か摸範を取る所を知り杓子を以て耳掻きの注文に應ずるやうの

迂濶を免るゝことを得べきなり右は差當り我輩の思付きたる所なれども其他之れに類似し

て施設の急を要する事業は世に甚だ多きことなる可し此等の事業は官とも附かず民とも附

かず所謂國立の資格を有せしむ可きものなれば縦來官民別立の弊を破り此等社會公共の便

益と爲る事柄は官民共同して經營するこそ肝要なれ左ればにや西洋諸國にては國立に係る

事業甚だ多く現に佛國などにては演劇塲又は觀古美術舘等にて國立の資格を有するものも

ある由なり然るに獨り我國に於て國立銀行の外、別に國立の名を下す可きものなしと申す

は啻に外國人に對して耻かしきのみならず我輩は國の爲めに大に之を惜まざるを得ざるな

り盖し此邊の計畫は官の方より指揮するも民の方より發起するも許多の資本を要し又其向

きの丹〓なる人を要することなれば朝野に與望の重き人々が奮て其事の成否に任せざる可

らず意ふに此等の事柄は財産もあり與望もある華族諸君などの企圖す可きものにして苟も

諸君の盡力するあらば官の筋より將た民の筋よりして資本の出所なきを患ひざる可し即ち

今我輩が官民を混同して國立の有益なる事業の我國に發起せんことを企望する所以なり