「商家の心得」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「商家の心得」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

商家の心得

左の一篇は商店主人が店の者を取扱ふの心得とも爲るべき條々を思ひ付きのまにまに極通

俗に綴りたるものにして固より大方に示す可きものにあらざれども聊か掲げて衆覽を煩は

すと云爾(見出しの前文)

爰に或る種の商店を開くときは其商店の大小に應じて番頭小僧即ち店の者を雇はざる可ら

ず之を雇ふに當りては其人物を撰むこと肝要ならん凡そ多くの公衆に對して其歡心を買ひ

公衆をして我れを愛顧して我周圍に來ることを樂ましむるの位置に在るものは其外貌或は

性質等に於て人氣を寄する箇所即ちAttractive point を備へざる可らず俳優藝者幇間其他

諸藝人等に於ても其拔群なるものに至れば其藝を外にして別に自ら多少人氣を寄するやう

の風采性質を具ふるを常とす或は少しく飛び離れて新聞探訪者の如きものにても上下百般

の人に接して種々の質問を試み先方をして樂んで我れと談話して其胸襟を開かしむなどの

工合に至りては一種人に愛せらるゝ所の性質を具へざる可らず往年クリミヤ戰爭の際英國

の某新聞社(倫敦タイムス新聞社と覺ゆ)より派遣したる戰地探訪者某氏は頗る探訪の術

に長じ戰地の事情を通信するの詳密精確なること他人の企て及ばざる所なりしが某氏は元

來奇癖ある人物にして其容貌風采の快活洒落なるは申すに及ばず音聲も亦頗ぶる奇なるが

中に就て其僕を呼ぶの聲は特に奇にして面白く一度之れを聞きたるものは再び之を聞きた

がる程なりしかば何人を訪問するも人皆な之れを愛して快よく之れと語ることを好み扨て

こそ好探訪者の名を得たるものなりと云ふ顧みて商店の番頭の位地如何を考ふるに矢張り

人氣を寄するの箇處を備ふることを要するものゝ如し其故如何と云ふに凡そ人の商店に群

集するは其店の品物の他よりも廉なること主として之れが原因たるべしと雖ども其店の者

が世辞愛敬を旨として客の歡心を引き寄することも亦第一原因たるべければなり抑も商店

の番頭は其店の性質次第、多少其撰を異にすれども兎に角正直の者ならざる可らず人の性

質の正邪は一見して判斷し得べきものに非ざれば當人の平生を熟知するものに就て其行状

を質問し又其父母の履歴を調べ當人の年齢尚甚だ幼いにして後來の方向如何を卜する能は

ざるが如き塲合には先づ其父母の人となりを目當てにして之れを取捨すること肝要なり性

質の快活にして腹藏する所なく一見甚だ賑かにして毒氣なきは人の愛顧を引くの要素にし

て至極結搆なりと雖ども之れに粗暴懶惰放縦の性質を伴ふものは决して店の者たるに適せ

ず又利發にして掛引きに長じ客の氣合を見るの〓なるは宜しかれども左ればとて實着の風

に乏しく浮氣奸猾の氣を帯びて所謂生馬の目を拔くが如きものも亦甚だ危險なり優美温順

なるは妙なりと雖ども左りとて〓〓不活溌にして决斷に乏しきは不妙なり此等の撰は其商

賣柄にも關係することなれば各取捨する所あることならんと雖ども概して店の者は氣輕に

して談話を善くし丁寧活気にして客に對して常に欣然の色を帯ぶるを要す又此等の氣質に

次て人を撰ぶに注意すべきものは其人の容貌風采なり容貌は必ずしも美麗にして玉の如き

ものを貴ふには非らず鼻高く色白く面相端然として申分なきも滿面何にとなく愛敬なくし

て恰かも木偶人の如く應對振に興味なくして俗に云ふ人付のせぬものは商賣人向きの容貌

に非らず商賣人は奇異なる醜男子にても差支なし或は一風變りたる状貌を具へて一たび之

れを見たるものは永く之れを忘るゝことなきが如きも面白からん美にも醜にも其中何んと

なく愛敬ありて人付の善きこそ專一なれ近頃の事なり或人其友人を某幼稚學校の教師に薦

めたるに校長某氏は學力品行等の事に付て別に一言を發せず唯「拙者は彼れの容貌が氣に

入りませぬ」との申分にて之れを謝絶したりと云ふ蓋し亦見る所ありしものと思はる深く

世情を究めざるものは容貌風采など云ふことは實際の交際上に關係なきものなりと思ふ者

もあらんかなれども其實は决して然らず今日の實際に於ても所謂自然淘汰の理にて商人社

會官員社會職人社會等の區別を立てゝ扨て其中の人物を見れば概して其社會に固有する官

員面職人面等一種の容貌風采を所持するものゝ如し即ち八字髯を捻り廻すものは世辭で丸

める商店の番頭には不向きにしてあぐらをかき手拭を鷲攫にする連中は高帽を載て四馬に

鞭つに不似合なり左れば商人社會にて其店のものを撰あんとするには容貌風采のことを等

閑に付せずして夫々其商賣向きに似合はしきものを取ることを忘る可らざるなり

扨又是等の點より觀察して序に茲に一言すべきものあり其は他にあらず我國の商店にて番

頭小僧として婦人を採用することなり從來我國の商店にては茶屋料理屋等を除くの外、店

の者は大抵男子のみを雇ふて婦人を用ゆるもの甚だ稀なり或は婦人の店を張るものを見受

けざるにはあらざれども是れは此家の娘や女房が片手間に手傳をなす位のことに止まり特

別に婦人を雇入れてこれを見世のものと成せしを聞かず今其故如何と云ふに從來日本の風

習にては女子は十七八歳にもなれば早く既に人に嫁して戸内のことを始末せざる可らざる

が故に商店に奉公して戸外の商賣に從事することを得ず或は之れに從事することを得るの

時期なきにしもあらざれども其時期たる極めて短く從來商店の番頭が十一二歳の小僧の時

より奉公して半百の年迄も其家に勤續するが如きこと能はざるが故に商店にて婦人を雇ふ

もの少なかりしならんと雖ども世の文明の進歩するに從て分業廣く行はれ切れ切れなる戸

内の仕事も之れを一纒にして戸外の仕事となるもの多きものゝ如し例へば彼の養蠶生糸の

如き往時は農家の戸内の仕事にして家々の婦人が銘々にこれを取扱ひたるものなれども近

年に至りては養蠶生糸は立派なる戸外の仕事となり大なる養蠶所製糸所を設立して専門の

工女が之れに從事することゝはなれり又彼の裁縫の如き料理調烹の如き往時は戸内の仕事

にして家内の婦人がこれを始末するの習慣なりしが裁縫は仕立屋の業となり料理調烹は仕

出屋の手に歸し西洋諸國にては衣服の裁縫は大抵之れを仕立屋に托し自家の庖廚に炊烟を

掲げずして仕出屋の飯を食ふもの甚だ多き由なれば我國にても追々世事の進歩するに隨て

社會分業の法も行はれ戸内の仕事は一纒めに纒まりて遂に戸外の仕事となること即ち自然

の順序なれば婦人は其身の既婚未婚に拘はらず一種の業務に從事することを得べきなり斯

くて婦人が戸外の業務に從事し得るの曉きには店のものとして婦人を雇ふの必要を生ずる

に疑ひなき其次第は今の日本の商店にて婦人を雇ふて店のものと爲すに便なるもの少から

ざればなり凡そ婦人の性質は粗大なる事柄には堪へざれども緻密なる事務に付ては至て頴

敏なるものにして男子の遠く及ばざる所なり西洋學者の説く所を聞くに女子は學問上にて

も頗る頴敏なる所あり例へば外國語學の如き男女同時同樣に修業すれば平均して女子の卒

業が男子よりも早しと云ふ又或る醫師の説に患者が來て其病の容体を陳するに男子は兎角

粗漏にして發病の兆候又は其病患の經過を訴ふるに往々不分明を免れざれども婦人は其病

状を陳すること概して精密にして分明なりと云ふ又衣服髪飾などの事に就ては其感覺非常

に頴敏にして婦人が一見して他人の被服髪飾等の模樣色合品柄を記臆し下着の縞柄に至る

迄も細かに之れを物語ることあるは人の能く知る所なり又西洋諸國の實驗に據るに婦人は

電信電話機の技師に適せりと云ひ現に我國にても養蠶製絲紡績等の業は婦人の長技として

之れを許さゞるものなし婦人は斯く精巧緻密なる業務に頴敏なりとすれば日本の商店に之

れを使用して利益少なからざる可し例へば呉服、小間物、書籍、裁縫等の諸商店は何れも

婦人番頭を使用するに適する者にして濃かに客の用向きを聞取り品物の性質を説き其流行

の模樣を語る等都て其應對振りの優良精密にして客の滿足を得せしむるの一點に於ては迚

も男子の企て及ばざる所なれば我輩は我國の商店が舊來の慣例を破りて其業務の婦人に適

する限りは婦人を以て其方面に當らしめんことを渇望するものなり(未完)