「僧侶西洋語を稽古すべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「僧侶西洋語を稽古すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

僧侶西洋語を稽古すべし

日本全國の基督教徒は本月の始めを以て同盟會を東京に開き教法弘布の件に就き夫れ夫れ

相談の有りたる末第五號の議案に於て全國基督教徒の記名を以て公賣淫廢禁の議を日本政

府に建白するの可决を爲し全國の同信徒有らゆるものゝ記名調印を取聚めやがて之を政府

に差出その運びに决し一先づ其會を散じたる由なり我輩は耶蘇教の信者にも非ず又去迚佛

教にも侫せずと雖も只局外に之を眺めて西洋宗教家が弘教に巧みにして豫て又其事に熱心

なるに感服するなり盖し教門の事は俗事に無縁なるに似たれ其無縁即ち有縁にして俗事を

離れては教門立たず西洋の宣教師は常に此奥義を心に掛けて布教を勉むるが故に日本に漸

入以來未だ何程の歳月も經ざれ共其信徒追々に増加して殊に本年に至りては大膽にも全國

信徒の記名を用ひ公賣淫の禁止を建議して大に社會の改良に率先せんと欲す、世縁を脱し

ながら又能く世事を忘れざる宗教家の心得は現に斯くこそ有り度きものなり

夫れは別事として日本現在の佛教僧侶はその數十萬以上にして宗派こそ様々なれども中に

就て見る時は名僧智識尠なきにもあらざる可きに偖この僧侶が現世に對し如何なる功徳を

施して又如何なる濟衆の妙法ありやと云ふに寂然として音さへ聞えず或は強てその内部に

立入りたらば時として紛擾淫猥の沙汰聞くに忍びざるの醜を發見する事はあらんかなれ共

其教法を弘め若くは衆生を濟ふの道に至つては恬として之を顧みず恰も身を佛門に托して

而かも其所托を忘れたるに異ならず甚だ奇怪と申すべきなり徃古佛教の日本に入りし當時

より千有餘年のその間教法の汚隆一にして足らずと雖も皆な濟衆を以て本義と爲し社會公

衆の利便のために橋梁を架け農桑を勸め隱然たる世利民福を進めて坐ろに感化を人の腹心

に敷きたるは開山中興の宗祖は勿論、全國末門幾多の子弟みな此の筆法に基かざる無し但

し今日に至りては世も文明と相成り教法の徳に由らざるも土木興り僧門の助けあらざるも

勸業振ひ教俗相分れて復た用無きの姿に移りたるより僧侶は悉く其手を引き今は將た濟衆

の工風に竭きて茫然たるのみ甚だ氣の毒の次第なれ共然れども今の文明の世の中に橋梁農

桑より外に濟衆の道無しと思ふは大なる誤りにして智慧無きの至りと謂ふべし不文に處し

ては不文に行ひ、文明に處しては文明に行ひ、世と教と與共に推移する事宗門の秘訣にし

て若し古の開山中興の祖師をして今日に再生せしめば果して手を拱て茫然たる可きや我輩

は幾多濟衆の工風勃々浮み來りて之を明治の今代に實行し其教法の興隆を計るに於て餘裕

あるを深く信じて疑はざるなり

然して今の俗社會を看渡せば多事多端限りも無く其間に立て衆を濟ひ教を弘めんと欲せば

善巧方便尠なからず例へば内地雜居の約束極まり西洋人が一時に國の内外に混同するの日

亦遠きに非ずとして偖其時の混雜は如何なるべきや思ひ當らざる次第ならん先づ内地に入

込みては言語も通ぜず樣子も判らず不知即ち不和の根元にして些少の徃違ひにても雙方圭

角を荒立て意外の葛藤を生ずべきは人情の世界に起り勝ちなる事相にして兎に角に數千年

來國を鎖したる日本人が突然開國する仕樣なれば容易ならざる大事と爲すべし之を是れ利

用して其際に佛教僧侶が俗事に近寄り雙方の不和をなだめて事の纏まりを圓滑にせば世を

利して與に弘教の方便に爲るべきこと明白ならんなれ共先立つものは言語なるに今の日本

の僧侶中果して能く西洋の言語に通じ日本内地不文なる人民の爲めに其求めに應ずべき用

意は有りや甚だ疑はざるを得ざるなり獨り是れのみならず今日に於ては各相互に學校を設

け生徒の人員全國を通じて三萬近くも有り其學校の數これに凖じて夥しき事ならんと雖も

此中に西洋の語學を教授して生徒の爲めに現時將來の利を計る者としては殆んど皆無の有

樣なり實に不覺悟の至りにして若し開國雜居の後の日本に處し、其教法を維持せんとの念

慮もあらば人民の上に立つ僧侶の身として亦耻づべき次第に非ずや優存劣亡は世界の大法

にして社會に用ある者は生存し社會に用無きものは亡滅するの理、事實に於て爭ひ難し内

外交際の世の中に必要なる外國の言語をも知らず單に祖師遺傳の舊株を守りて其教法を維

持せんと欲するは隨意なれ共社會無用の冗物としては其生存の六ケ敷き事今に及んで頓悟

なかる可らず今日の勢ひ西洋の宗教は時用に投じ世利を進めて其働きの目覺しきに日本の

僧侶は獨り閑眠して死物の如し我輩宗教に無縁なれ共何を申すも十萬以上の僧侶を有する

日本の佛法にして聊かにても經世の徳を施さんとならば取り敢へず其社會の後進生をして

西洋語を稽古せしめ一つには僧侶の身躬から文明を知るの助けと爲し二つには之を以て内

外交渉の此娑婆に於て人情緩和の方便に供せんこと我輩が今の佛門に向て注文する所のも

のなり