「實業教育の第一着」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「實業教育の第一着」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

實業教育の第一着

普通教育の國民に必要なるは明白の事實なれども漫然

たる讀書學問は決して教育の本旨に非ず農家の子弟野

を耕し牛を逐ふの身にして高尚なる動植物學の講義を

聽くも譯は分らず商店の小僧二一天作の算盤を持つも

のには財本勤勞の新文句亦其耳に入る可からず好し之

を耳にし口にして鹿爪らしき道理を知るとするも人生

日常衣食の道に縁遠くしては其效能も亦薄しとは我輩

の持論なり凡そ世の中の事物には適當の度合あるもの

にして例へば教育の事の如きも日本人の身代を考へ又

その知識の程度をも測りて能く能く實地を勘辨せざれ

ば時に教育偏重の弊なき能はず又この教育の偏重と申

すは單に其費用の増加をのみ指すには限らず教育費の

議論は別にして只教ふる所の學問科程が其學生の身分

に適切するか、せざるかにて亦利害を殊にするを免れ

ざるなり即ち一歩を進めて論ずれば後來其學生が一箇

人として世に立つの曉に至り曾て其身に得たる學校の

教育が本人の衣食住を助くるに役立つ者ならざれば先

づ其教育を評して効用薄しと云ふも然る可し是れ乃ち

西洋諸國に於て近時實業教育論の盛んなるに至りし所

以と知るべし蓋し讀書算術作文等の數科を除き其他の

學問知識に至りては農家の子弟と商家の子弟と其間に

緩急の別ある事當然の道理にして更に仔細に論ずれば

同じ農家の子弟に於ても其土地の氣候に由り物産に由

り又其市場の關係に應じて樣々の取捨變更無かる可か

らず商家の子弟といへども其趣きは之に均しく例へば

開港場雜居地の小學校ならば何は偖置き學生に外國の

言語を教ふる事肝腎なれ共少しく内地に進入して商賣

の模樣較や異なるの所に於ては先づ商用書翰の認め方

或は算術簿記の稽古等を第一にして外國語學の如きは

假りに之を第二着に廻して差當り不都合は無かるべき

なり孰れにしても其土地の状態に相應して學生の爲め

實業教育の門戸を啓くは日本教育の前途に於て甚だ大

切の次第なるべし

右の理由果して是ならば我輩は爰に取敢へず農家子弟

實業教育の第一者として全國公私の村落小學校に養蠶

の科程を加へて之れを教へんことを祈るものなり其理

由を如何にと云ふに抑も養蠶の事業は日本の風土に適

して特に將來の需要たゞ盛大の一方なれば之を以て日

本の富源を開く可しとは我輩の毎々申し陳べたる所に

して其事業の普及を圖るべきたゞの一點に於ても今の

村落小學校に此科程を入るゝの必要を知るべしと雖ど

も更に又其歩を進めて論ずるに養蠶製絲の事は他の米

を作り麥を作るの業に比して一層學理の應用を要する

が故に從前の如き散漫なる仕方にては十分に見込み有

る可からず今日までの養蠶は云はゞ農家の手心一つに

して習慣手練の外に便るべきもの更に無かりしなれ共

元來絹兒は生物にして其發育成繭の順序總じて動植物

學の範圍に於て之を研究するは容易の業なり故に例へ

ば蠶種催青の始めより掃下、眠りの加減若しくは其收

繭の方法その外緩急温冷諸樣の發育法より更に製種の

理に至りては種繭の精選より蛹蛾の見分け方或は種紙

の製法貯藏これに次で桑苗の種類栽培、桑の葉の摘み

やう剪み方或はかの土質に應じて各種の桑園を培養す

るの要略は申すも更なり製絲の順序に至りては繭の煮

方を〓一とし坐縒器械諸般の製絲法より荷造りの大略

或は又養蠶製絲の所用に供すべき家屋構造の利害得失

〓夫れ夫れ順序を立てゝ教授したらば完全なる一科の

理學にして尋常小學の科程には固より高尚に過ぐるの

恐れ無きに非ずと雖ども我輩の注文は決して高尚なる

ものを教ゆべしと謂ふには非ず官に淺近を要するは勿

論なれども例へば動植物學の教授に於ては農家の子弟輩

に縁の遠き他の諸動物の講義よりも專ら蠶兒の性質組

織等を研究せしめ又植物學の篇に在りても專ら桑樹の

栽培法を教授する事と定め學校教師が率先して現場に

蠶を飼ひ桑を作り學生をして同時に其實業教育を受け

しめたらば就學子弟の將來を圖りて利益効驗の夥しき

は爭ふ可からざるの事實ならん蓋し實業教育の主眼に

於て市街の學校には商業學を重しとし村落の學校には

農業學を第一とするは無論の事にて同じ農業の學の中

にも學理に基き實驗を示して教授するの有用なるもの

は又養蠶の科程に若く可からず且つ右の外に養蠶を實

業教育の科程と爲すの利益と申すは日本國中到る所と

して此科目は農家の子弟に適合せざるなく即ち其要用

最も廣くして何れの土地にも當嵌まるの一事に在りと

雖ども中には又説を立てゝ養蠶の教師を如何にすべき

や全國村落の小學校、無數の教員中には養蠶の事を知

らざる者百中の九十九ならん農家の子弟に此科程を授

くるは妙なれども授業者に其心得無くしては議論も無

用なりと云ふ人もあらんなれども我輩の所望は左樣に

六ヶ敷き事に非ず若し實地に養蠶科程を農業學に入れ

んとならば其教師の練習は一二期にして足るべし養蠶

の銘家たるを要するに非ず又深奧の學理を究むるにも

及ばず通常養蠶の知識兒童の心得となり得る丈けにて

十分なり近年伊太利にて小學校に養蠶科を加へて好結

果を奏したる所なりと聞けり他國の事は兔も角も日本

農家の實業教育は先づ養蠶を以て第一と信ずるもの

なり