「政略」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「政略」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

經世の要は天下の人情を制するに在りとは前節に之を陳べたり。此言果して然るか。然らば則ち人情とは如何

なるものぞと尋ぬるに、言甚だ鄙しきに似たれども、今の人間世界の德義を平均して人の心の内實を叩けば他の

名利を羨まざるものなし。故に人情とは卽ち羨望の情なりと云ふも可ならん。殊に政治社會に於ては此情最も盛

んなるが故に、經世の士人が既に名利の地位に居て宿昔の志を伸ばし、國の利を興して身の名を成さんとするに

は、天下の人をして羨望の念を薄くせしむること最も緊要なる可し。即ち衆目の見る所にて政治家の地位は左ま

で羨むに足らずとの念を起さしむることなり。卽ち衆目の方向を他に轉じて我施政の働に餘地を得せしむること

なり。經世家の最も注意す可き要點にして、其法如何して可ならんと云ふに、第一、身を爲政の地位に置く上は、

唯政を爲すのみにして、如何なる事情に接するも他事に手を出し、又その勢力を貸さゞること緊要なり。抑も一

國の政は其區域こそ廣けれども、事は甚だ繁多なるに非ず。唯一定の法に從ひ、約束の如く之を施行するまでに

して、其約束外には事を行はざるのみか、人に交るにも及ばざることなり。私に人民に接して言ふ可きことさへ

*三行読めず*

*一行読めず*

〓〓〓たる者は、拜命の〓〓より交際の趣を變じ、如何なる急に臨みても公用の外は他人の家を訪はず、〓〓〓

に無用の人に面會せず、養子などの身分にて實家の父母の病氣見舞とあれば格別、その他は近親の往來も相成ら

ざるの法にして、其巖なること誠に以て四角四面なり。故に目付役は政治上の權威甚だ盛んにして、殿中大目付

の一咳は百諸侯を震慄せしむるの諺さへありしほどのものなれども、官民一般の私に對しては差したる勢力ある

にあらず。之を彼の勘定奉行の門前、常に市の如くなるものに比すれば、同日の論にあらずと云ふ。左れば今日

の政治家をして德川の目付役を學ばしめんとするは固より無理なる所望なれども、世上羨望の氣焰を消せしめん

とするには、勉めて政治外の勢力を縮小して以て爲政の餘地を寛にすること、其身の功名の爲めにも又社會の安

寧の爲めにも利益なる可し。第二には政治外の人をして各得意の地位を得せしめ、恰かも別乾坤に其功名心を逞

ふせしむること緊要なり。人生の好む所は固より一ならず。或は學問を好む者あり、或は宗敎に熱する者あり、

或は工業商賣に身を委ねて貨殖を樂しむ者あり。既に之を好むときは其好む所の部内に自から功名榮譽の香ばし

きものあるが故に、經世の要は此功名榮譽を保護して最上の地位を得せしむるに在るのみ。斯くの如くするとき

は、工商も宗敎も學問も政治も各獨立の地位を得て相下だることなかる可し。其相下だらざるは卽ち相妨げざる

の實相にして、爲政のために便利なること言はずして明なる可し。人或は謂へらく、政治外の人に最上の地位を

授けて之に重きを附すること分に過るものあらば、一國社會に上下貴賤の秩序を失ふて不都合ならんなど心配す

るものあれども、是れは唯國に政治あるを知りて他あるを知らざる東洋の學者論のみ。元來上下貴賤とは何を標

準にしたる文字なるや。事の要用なるものを貴しとして、然らざるものを賤しとする歟。然らば則ち學問宗敎工

商と政治とを比較して孰れが立國の爲めに要用なるや。如何に説を作るも共に是れ同一樣なりと云ふの外なかる

可し。古來政府なくして社會を成したるものあるを聞かず。此言誠に然りと雖ども、工商宗敎學問なくして能く

文明の國を立たるものも我輩いまだ之を見ず。其要既に同一なれば、其間に貴賤輕重の差別ある可からざるも亦

明なる可し。故に政治家の貴きは唯政治部内に於て貴きのみ。其威光は以て他の社會に及ぼす可からず。學者宗

敎家の貴きも亦自家の社會に限るのみ。其光明は以て他を照らすに足らず。誠に道理至極のことにして、相〔雙〕方の

間に相戻るものなきにあらずや。斯くの如く各自其部内に居て功名榮譽を專にすれば、恰かも國中に幾多の中心

を作るの姿にして、自から他を羨むの念を薄くするに足る可し。在昔德川の政略は權力平均を以て根本の主義と

爲し、事の大小に論なく此主義の行はれざる所なきが如し。堂上の公卿に爵位高くして利祿甚だ薄く、諸侯に實

力盛んにして爵位低し。政府の權柄を握る者は小諸侯にして威權赫灼たれども、他の大諸侯より之を見れば唯政

治上に恐る可きのみ、他の事に關しては固より伍を成すに足らず。又彼の宗敎の本山たる本願寺の如き、增上寺、

知恩院の如き、其住職の貴きこと諸侯の上に位して、地位に於ては遙に執政等の上流に居り、其門末に對するの

勢力鬼神の如くなるのみならず、武家に接するの慣行さへ甚だ驕傲なるものなれども、政事上の關係に就ては寺

社奉行の命に服し、小吏人の爲めに左右せられて豚犬の如きのみ。此他大諸侯と小諸侯と、親藩と外藩と、譜代

と外様と、諸侯と旗下と、藩士と旗下と、役員と番士と、其の末流に至りては町同心と組同心との釣合までも、

*三行読めず*

*一行読めず*

の工風巧なりと云ふ可し。德川の武力強大にして其執政の權柄重しと雖ども、天下の爵位も利祿も社會の一部分

又一身の上に集めて、却て爲政の圓滑を妨げ、以て自から苦しむが如きは、古人の爲さゞりし所なり。

〔八月十六日〕