「資本なきに非ず技師なきなり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「資本なきに非ず技師なきなり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

資本なきに非ず技師なきなり

日本今日の鐵道事業はその機會極めて成熟したるものなり數年前までは世に鐵道の功用をさえ知らずして我輩の所論に反對の人も多かりしが今日に至りては誰一人として鐵道敷設の必要を認めざる者なく日本全國の輿論この一問題に聚まると云ふも不可あらざるの有樣にして國中各所の新會社が一たび其資本を募る時は幾百萬の大金にても瞬息にして辨ぜざるはなし或は射利投機の業に似たるの嫌なきにあらざれども熟々事の實相を察するに新會社の發起人は更なり爭ふて株主となる人々の目的は敢てこれより非常なる配當利益を受けんとするにあらずして通常年に五六分位の豫算收益ある線路なれば之に滿足するものの如し盖し四五年來の不景氣に工商皆失敗して流通資本の用法に苦しむの折柄、苟くも五六分の收益とあれば之に向て其資本の流込むも亦自然の勢なる可し故に今日の鐵道起業を助るものは空漠たる無形の輿論にあらずして社會經濟の要用に出でたるものなり即ち鐵道の起るは取りも直さず經濟上不祥の徴候にして亦不幸の幸と云ふ可きものならん其幸不幸の議論は姑く擱き兎に角に今日の勢にて我商賣社會に持て餘したる金圓は皆流れて鐵道の新溝路に注ぐと雖ども獨り其工事の捗取らざるが爲めに之を容るること能はずして空しく溝外に溢れ出るこそ遺憾なれ日本鐵道會社の如きは其募集の株金に應じて工事進まざるがゆゑ可惜莫大の金額を預け金として今日の勢は唯工事の進歩と與に早く其金を消費し得ざるを是れ恐るる者なりと云ふ兩毛鐵道水戸鐵道なども既に工事實測に着手して事業の進み次第一氣呵成更に後回の株金を拂ひ込む許りの支度は整ふたれども例の如く工事の進まざるが爲め態と其拂ひ込みを猶豫し置くの姿にして其他山陽九州若しくは山形甲武等の諸鐵道會社に就て内情を聞くに大抵皆同樣ならざるはなしこの外我政府の募集したる中仙道鐵道公債は其線路を東海道に變じて現在起工の際中なれ共これも資本と工事とを比較したらば公債遊金の部分多きこと必定なる可し此の如く日本今日の鐵道事業は决して資金なきにあらず唯其工事の進まざるを以て折角の資金をば國庫若しくは銀行の弗箱中に隱匿し利益ある可き資金をして其利を得せしめず企業者は手を拱して茫然たるのみ私の爲めにも國の爲めにも經濟法の得たるものにはあらざる可し

昨年の今頃に在りては鐵道の議論も今日ほどに盛ならず假令へ其議論あればとて資本の一點に疑を抱くは天下普通の人情にして當時我輩の鐵道論は餘り早急に失するなど咎むる者も多かりしほどなるが滿一箇年の經過、今日に至りては獨り資本の不足に苦しまざるのみならず餘貲堆くして却て其停滯に不都合を生ずるの次第なれば之に處するの策は成るべく速かに工事を進ませて大切なる遊金を活かすの工夫專一なる可し事業の種類に由りては資本のみ聚まるも本業の準備整はざる間は事の行はれ難き次第もあらんなれ共鐵道は决して斯かるものに非ず建築の資本さへ充分なるに於ては工事を進ましむることも無造作にて準備云々のために時月の延引を許さざるなり夫れも徐々に工事を起すときは其費用殊更に廉價なりと云ふ如き特別の事情あるならば經濟節儉の點に於て枉げて遲緩を忍ぶ可きなれども我輩に於ては工事を徐々にして何等の利益あるや之を看出すこと能はず盖し鐵道工事に要する資本の一半は内國の消費に屬し他の一半は外國に拂出すの區別あるが故に外國に拂出す部分を少なくして出來得る丈けは日本國内に其器械を作り材料を求むるの工夫肝要ならざるにあらず若し日本の鐵道工事を延ばすこと三年五年にして其間に内地の工業進歩して需要の物品を海外に仰がざるの程度に達するならば一時の權宜工事の遲滯を恕するの理由あることなれども軌條なり機關車なり貨車客車なり此等は所詮日本にて製造の出來難き品物なれば之を西洋の供給に依頼するも萬已むを得ざる次第にして無理に日本にて造りたらば或は成ることもならんと雖ども素より不慣の業にして商賣上の勘定に叶はざること明白なれば是れは今も今後も數年の間は外國に仰ぐとして其他の要を枚擧すれば線路用地の買上げ築堤土盛の工事或は開鑿切取りの入費、枕木の代價停車塲倉庫の建築等にて皆日本内地の勤勞と材料とを以て支辨し得ざるものなく而も近年の不景氣にて人夫の賃錢も最も廉く土工を起すには倔強無上の今日なれば此時を捨てて徒らに歳月を移すは惜むべきの至りならずや資本充ち時機達し千載の一遇とも稱す可き有樣なるに獨り其工事の遲々として之に伴ふ能ざるは我輩一に之を技師の不足に歸せざるを得ざるなり現在鐵道の敷設工事に關係せる技師の員數を聞くに甚だ尠く、測量師たり建築師たるに論なく東西の需め一身を以て忙はしく之に應じ甲の鐵道會社に線路實測の濟まざる間は乙の鐵道會社も又自線の測量に着手する能はざるの始末なるは畢竟少數の測量者を以て多分の依頼に應ぜんとするの故ならん或は軌條敷設の事業に至りても東海道の官線鐵道を監督する技師の手の緩むを待て後ち之を日本鐵道會社の私線工事に廻はすなど云ふ繁忙にして何れの會社にても測量師建築師の手明きあるまでは交る交る其工事を中止にするか但しは暫く起工を斷念するほどの次第なれば目下の要は先づ第一に技師の數を増すに在りと雖ども今日より新に學生を仕立てて日本人の技師を作り出さんとするは實際の間に合ふべきことにもあらず去迚今の少數の技師を東より西より爭ふて用ひんとするも數の許さざる所なり左れば此上の策は差向き日本の製造に叶はざる物品を外國に仰ぐと同樣の趣意に從ひ我國に乏しき技師の供給をも外國に依頼するの外なかる可し既に之を雇入れて各其受持の區域に監督の勞を取らしめ日本在來の技師と力を勠はせて工事の竣成を急ぎたらば功を收むる容易にして今日の如く測量建築遲延のため各所の鐵道會社が其頭を病ましむるの不都合もなかるべきなり或は西洋人を雇入たらば夫れ丈けの俸給を損するの勘定ならんなど云ふ論者もあらんなれども總じて鐵道事業の費用中、技師の俸給の如きは誠に一小部分の事にて計算にも乘らざるの次第なるは實地家の知る所にて夫れよりも今日の如く國庫若しくは銀行に莫大の鐵道資本金を遊ばせ置くの利息こそ徒損なれと我輩は敢て此流の論者に答へんと欲するものなり