「歐洲列國の大勢 (前號の續き)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐洲列國の大勢 (前號の續き)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

英國の政略

英國の海軍は當時佛國を外にして歐洲中之に及ぶ者一國もある可らず軍艦の多き大砲の備はる世界第一なりと云ふと雖とも地球上到る所に殖民地を所領して英國の人民これに財産を托するの今日一旦戰爭破裂したらば東西の防禦果して英國民の利益を損せざるを得るや否や疑はしき次第と云ふ可し英國の海軍大なるに相違なけれ共其大は唯他の列國に比較したる話しにして英國の版圖英國の富に割合せては寧ろ小なりとも申すべき其仔細は到底今の海軍を以て本國を守り殖民地を防ぎ彼此一齊手落なく敵の侵撃に抗すること能はざるに外ならざるなり左れば加奈陀なり濠洲の諸嶋なり此等の殖民地は大抵自國の力を以て防禦の策を講ずる者なりとするも印度の一國はその富の莫大なるに拘はらず守備甚だ薄弱なれば勢ひ本國の艦隊を分て其急を救はざる可らず然るに英國本嶋の海防尚現在の海軍を以て充分の見込みなりやと云ふに獨り安心す可らざるのみか更に外國軍略家の所説に隨へば英國との戰爭には我より進んで之を攻めずんばある可らざるの窮所ありと云ふは他にあらず英國現在の海軍は十分敵の攻撃を喰止むべき見込なき者にて敵兵が愛蘭蘇格蘭に上陸し若くは又英國の北部を攻落すの容易なるは言ふに及ばず突然南部に兵を擧げて直に倫敦を衝くの軍略〓〓なきに非ざるなり或は斯る塲合には英國はクロイドン(倫敦を去る十一英里南)に其兵力を聚むることならんと雖も日耳曼洋に面したるハルウイツチ(テームス河口より遙か以北にてエセツクス郡に屬す)の側よりも又又攻撃の恐あり其際英吉利海峽の諸嶋敵の爲めに苦めらるるも必然にして且つ我輩の聞く所に據ればプリモウスの軍港は其固め充分ならざるが故にレーン、ヘツド及トレガントル堡の間の海面并にサルタツシ、セントゼルマンス兩所の中間より之を砲撃するは無造作なりと云ふ又ポルトモウスの軍港もフエーヤハム岸の守備薄弱にして更にヒルシイ、ポルツドン兩所の砲臺の如きは今も尚ほ昔のものを其の儘にて時用に適せざるの恐れあれば外國の軍艦突然之に乘入て非常なる砲撃を試むるの手段行はれ難きに非ず又此策を施すには多數の兵を要するにも及ばず疾雷迅速英人の意外に出でて急に倫敦を衝くのみなれば喩へば佛蘭西などにて密密支度を整へ聊かも人目を驚かさずして不意に英國を打つの〓り實に尠少ならざるなり此等の事情より考ふれば英國今日の兵力は獨り殖民地の利益を防護するに足らざるのみならず何よりも肝腎なる英國本嶋の位地既に累累として將に崩れんとする千仭の崖下に立つ者なり之を思へば悚然として寒心するを覺えざるべし

印度の富饒は英國の恃みとする所なり露國南征して印度を侵掠せんとするの形迹あらば英國は爲めに如何なる危險を冒すとも印度の防禦を怠る可らず萬一印度を棄つるが如きは是れ取りも直さず英國人民の幸福を放棄するの惡業にして爲すに忍びざる所なれ共去迚今の印度の兵師を以て能く露軍の攻撃に敵し得べきや疑はざるを得ざるなり露國が印度地方に差向けたる兵力の實際を知るものは皆其精鋭犯す可らざるを明言せり交通の未だ不便なる今日に在ては露軍大擧して印度を衝くの策當分行はれざる者にもせよ現在ヘラツトを超えて來る所の陸兵は精撰の勇士ならざるなく英國逡巡して早く之に備へざれば露國倍倍其國境を南に弘めて遂に如何とも爲し難きに至るは數の明なる者なり而して一旦英露の和親破れたらば英國が露國を攻むるの手段如何すべきや即ち露國太平洋の海岸例へば浦鹽斯徳の如き軍港を攻撃して露領内に戰爭を持込むより外に銘策なかるべく之を爲すには支那の同盟最も大切にして英支の聯合滿州地方の地位を固め以て露國を苦ましむるは容易なりと雖も英國現在の海陸軍にて未だ此策を行ふの力なきは我輩の遺憾此上なしとする所なり兎も角も英國本嶋を防禦し又印度をも守り更に恃むべき遠征隊を設けて一朝不意の變故に應ずる此三ツの覺悟あること大切ならずや英國政府が一旦占領したる巨文嶋を棄てたることは爰に言はざるも香港の如き商賣上軍略上暫くも其防禦を怠る可らざるの要害なるに近時佛國陸軍の參謀部が編輯したる文書を視るに論者は香港の兵備を評して加奈陀鐵道開通の曉香港は東洋無二の軍港たるべきに拘はらず守兵少く防禦不足、英人も自ら其必要を知らざるに非ざれ共其南方の守備に至りては全く怠慢にして之を顧みざる者なりと論じたり我輩をして言はしむれば英國が巨文嶋を放棄したる心は即ち香港の守を忽にするの心にして東洋に自國の利益を保護せんとするに熱心の少き事、實に怪むに堪へざるなり兵備費用の増加を忌厭する論者は砲臺を築て防禦を嚴にするは空しく金錢を浪費する者なりとして痛く之に反對なれ共軍事經濟の理に於ては砲臺の建築は戰時に守兵の數を省き平時には又之を守るの費用を■(にすい+「咸」)ずるの利益ある者なり日耳曼の如き百事節儉を旨として一錢も無益に消費せざる國と雖も砲臺建築の費用は寧ろ之を吝まざるなり世人は謂らく英國ほど富有の國あらざれば事に臨んで俄に砲臺を築き軍艦を作るとするも防禦の策、未だ遲からず苟も金力あり、兵力は即座にして之を買ふこと容易なりとて恬然危きを悟らざるが如きは勝敗懸引の迅速なる今日の時勢に照し甚だ不〓の〓なりと云ふ可きのみ

尚ほ英國の政略を論ずるに當りて忘る可らざるは例の愛蘭事件にして此國の一部に不和紛擾の存するが爲め全嶋の人民恰も不平の下に呻吟するの思ひを爲し、遂には海を踰えて英人と米人との關係までも面白からざるの形状あるは外交上の妨害尠きに非ざるなり其調和手段の如きは我輩の問ふを欲せざる所にして早く自治を許すならば之を許し、兎に角に内の纏まりを付けざれば政府は常に之が爲めに掣肘せられて列國に〓するの主義政策も因循姑息を免る可らず、其歐洲の平和を維持すべき點に於ても意の如くならざるのみか米國との折合ひも滑かならざるは全く之が爲めにして若し愛蘭の葛藤微かりせば加奈陀漁獵事件の紛議の如きも疾くに其形迹を歛めて同胞の國民修和親睦歐洲に對しても大に面目を施すの機會ありしに、事爰に出でざるは豈に〓憾の次第に非ずや英國外交政略の爲めには愛蘭紛擾の速に决着せんこと偏に希望に堪へざるなり (畢)