「節儉の主義民間に及ぶ可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「節儉の主義民間に及ぶ可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

節儉の主義民間に及ぶ可らず

我輩は官邊の事業を稱して一切効力なしとするにあらず陸海軍の事、裁判司法の事、其他政府の本分として務むべき者二三にして足らずと雖ども此等は悉く官の手を煩はさざれば行はれざる事項にして世界各國孰れの地も人民の私に其權を有するものなし其理由甚だ明白なれ共更に一歩を進めて論ずれば民間に於て經營し得る事柄にても尚ほ官の手に之を監督して其効驗却て見るべきものあるは毎度の事なり然らば効驗ある者は總て政府の管理に托するを得べきやと問ふに我輩は之に同意すること能はざるなり抑も一國の政府なりとて天與の財源あるに非ずして依る所は國の租税より外ならず之を消費するは經濟學に謂ゆる不生産の使用なる者にして其額の増加は間接に民間生産上の使用を減少せしむべきの道理なれば事の全面に於て望ましきものにあらず之に加ふるに人民自家の經營を以て作りたる資本ならば自から之を惜むの情に於て切なる所ある可しと雖も既に政府の手に歸して國庫金の名を帶るときは其使用法自から淡泊寡慾にして動もすれば浪費の弊に流るるの例なきにあらず是即ち我輩が仮令へ効驗の擧る可き事業にても必ず之を政府の管理に歸す可しと云ふ能はざる由縁にして官の經營は單に政治上必要の部分に限り都て其規模を小にして節儉の一方に注意あらんことを冀望するのみ

前條の次第なれば政府は自ら節儉を實行して國用を省くの工風甚だ大切なりと雖ども政府自家の節儉と共に其主義を人民にまで及ぼして民間の奢侈に干渉し爲めに世の文明を退歩せしめたるの禍は古來その例甚だ少なからず殊に東洋諸國の習慣として昔より政府が民間の奢侈を禁ずるを良法なりと稱し、上儉を守りて下を率ゆ云云の語あり即ち上に立つ所の治者が自身に質素儉約の模範を示して下民一統に贅澤を忘れしむるの考案なる可し此主義たる儒教論の精神にして政府自から儉を守りて人民にも儉を勸むることなれば尚ほ恕す可しと雖も時としては官家計畫の規模は宏大にして財用多〓甚だ不經濟の事業を營みながら獨り民間にのみ節儉説を奉ぜしめたるが如き奇談さへなきにあらず隨て斯る社會に殖産興業の道盛んにして文明生活の程度高尚なりしやと尋ぬれば獨り然らざるのみならず折角に進歩したる文明も儉約の爲めに退脚して家屋建築の術、衣服裝飾の技その他外形の進歩改良に屬するものは概ね皆熄滅して唯寥寥たる野蠻の風景を見るのみ其證據を求めんとならば之を古の歴史に探ぐるに及ばず維新以前封建諸侯の事跡を見て知る可し所謂明君なる者が自から大に節儉すると共に其領民にも儉約を命じ絹布の衣裳を禁じ金銀の裝飾を取揚げ唯實用を專一として次第次第に無用の物を除き其物に需要あらざれば之を作り之を賣買するものもなく職人も商人も一般に閑却して言ふ可らざるの難澁に沈みたるの事實は我輩の傳聞し又目撃したる所なり畢竟儒教主義に誤られたるものにして奇語を用れば人民は明君の暴政に窘められたりと云ふも可なり支那の政論に上の好む所下これよりも甚だしと云ふ其意味を解釋すれば政府にて奢侈を好めば民間の奢侈は一層これよりも増長し役人が質素を旨とすれば庶民は尚ほ一段に儉約を守る可しとの次第にして彼の明君が自から節して領民へも共に節儉を命じたるは此格言の意味を強ひて實行せしめたることならんと雖も一方より考れば明君の意を以て民間の方向を支配すること斯くも自在なるは即ち其民に獨立の思想なき證據にして我輩の甚だ悦ばざる所なり竊に西洋文明國の事情を察するに文明富強は國の文明富強にして政府と共に變動するものにあらず、人民の好む所は常に政府の好む所に支配せらるることなし民間の生活これを稱して奢侈と云はんか贅澤と名けんか其名稱は兎も角も一般に生計の度の高くして文明進歩の盛なるは眞に人民獨立の生跡にして東洋諸國人の及ぶ所にあらず况んや政府が自から節儉を守るを以て民間にまで併せて之を勸むるが如き干渉手段に於てをや勢の許さざる所なり故に我輩は日本前途の文明を計畫するに當りても民間の富豪は恰も西洋流の富豪の如く獨立獨行官邊に縁故あるなく政府の節儉民間の豪奢両美相並んで眞の文明を致さんことを希望する者なり

論者或は云はん豪奢の文字穩ならず故なくして人民の奢侈を促すは國の疲弊の原因ならずやと然れ共我輩説あり古來東洋流の政治の如く民間獨立の事業を許さず一も二も悉皆政府に支配せらるるの世の中ならんには謂ゆる上の好む所下これより甚しくして政府土木を興し華美を張るの俑を作らば人民また之に看眞似て故なきの奢侈に流るることもあらんと雖とも日本現時の社會は往日と其趣を殊にするもの少からず文明の進歩今日既に數着を西洋に輸せざるの有樣なれば政府が之に對するの政策も隨て西洋の主義に基くべきこと大切にして上、儉を守て下を率ゆと云ふが如きは時勢不通の論なりと評せざる可らざるなり尚ほ民間の奢侈これを自然に放棄して决して則を超えざるの次第は我輩乞ふ次號に於て之を陳べん