「大名華族は各舊藩地に歸住すべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「大名華族は各舊藩地に歸住すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

大名華族は各舊藩地に歸住すべし

宮内大臣土方子は本月十五日宮内省達第五號を以て華族一般自今地方に就き産業に從事し或は家計を維持するの目的を以て各府縣並北海道へ移住せんとするものは其事情を具し貫屬換を願出つべし其目的の至當と認むるものを聞屆くる旨達せられたり我輩は嘗て大名諸藩主が各舊領地に歸住するの良策なるを論して獨り華族諸氏生計の爲のみならず日本國經濟上社會上の利益を圖りて今日の如く之を東京狹隘の一地に押込め置くの姿あるは如何しき次第をも陳述したるは讀者諸君の記臆せらるゝ所ならん然るに今回宮内大臣の達令は從來の華族籠居主義を排棄して自由に各地に赴き産業に就かしむるの精神なること明白にして斯く東京を離るゝの特許を得たるに就て我輩の持論を云へば舊諸藩の大名が地方に土地を撰むに當り其塲所の事情にも通ぜざる新規の地に移らんよりは德川三百年の其間に既に巳に住慣れたる舊領地に歸るこそ便利なれとて飽くまでも之を勸むるものなり或は世間の一説に大名華族を舊藩領に就かしむるは封建昔日の餘炎を今日に再燃せしむるの媒介などゝて之に心配する者もある可し一應其理あるが如くなれども熟々社會現今の實状を推察すれば郡縣統一中央集權の制度殆んど到らざる所なく之に加ふるに文明日新の主義人心を刺衝して常に間斷あることなかれば縱令舊藩主が其舊領に居を構ればとて以て文明の大勢に抗して封建主義の遺毒を再蘇せしむるに足らざるは數に於て明に見る可し我輩は決して論者の言に同して其歸藩説を非難する能はざるなり

毎度申す通り華族は帝室の藩塀にして兼て社會の標準なりと云ふと雖ども從前の如く華族の一門東京にのみ蟄伏して一歩府外の地を踏まざるのみならず府内に居りながら尚ほ府内の社會とも隔絶して恰も一小桃源の天を爲すが如き有樣にては社會公衆の人は其存在を忘れて世に華族の有無さへ介意せざるに至ること自然の勢にして爭で之を仰いで己れの標準とするものあらんや現今華族の無勢力なる以て知るべきのみ此の如く今の華族の無勢力は全く東京籠居の致す所なりとせば之を恢復して眞正なる華族の稱呼資格を空うせしめざるの手段は各自地方に散じて自分の名譽自分の資産に依頼し人事交際を務めしむるに在ること勿論なりと雖ども凡そ名譽と云ひ資産と云ひ能く其實用を示して始めて重きを爲す可きものなれば唯單に歸藩の一事を以て其責任を終へたるに非ず更に進んで其地方に於て謂ゆる帝室の藩塀に兼て社會の標準たるべき實を顕はすこと肝要なる可し依て案ずるに華族諸氏は其子弟を教育するに府下に於ては學習院の如き特別の學舎を設けて之に托するの慣行なれども地方に移るの後は自家の私に子弟教育の仕組を設くること固より必要にして教師を雇ひ書籍器械を用意するが如き富豪の家に尋常一樣の事なれば事の序に少しく其規模を大にして私立學校の體裁と爲し自家の子弟を教るの傍に普く地方の少年を集めて共に學ぶことを許したらば鄕黨隣里は恰も子弟教育の伴食するものにして其德澤忘れんと欲するも得べからず特別の費用多からずして人に德するは大なり又醫師の如きも地方遠僻の常として其人に乏しく疾病創痍あるに臨んで甚だ狼狽困苦するは毎度我輩の見聞する所にして氣の毒に堪へざる所なるに華族諸氏が其家眷を引連れ地方に移住するに付ては必ず特に家醫を雇ふて同伴することならんなれば自家の病用に兼て地方疾苦の人の診察治療をも施さしめ或は其計畫を大にして病院を建設し併せて地方衛生の事業を進ましむるの工風も華族の信用勢力を高むべき一の方便なる可し學校病院二者の外にも尚ほ其手段を尋ねたらば自ら他の産業に妨げなく又家計の維持にも不便なくして同時に其地方の利益を爲すべきの業務二三にして止まる可らず我輩は華族諸氏の地方移住を期して孰れもこれが實行を促すものなり

右の如く大名華族が各其舊封土に歸住するは同族一門の爲を計るも社會公衆の利益より言ふも與に利あつて害なき次第なれ共爰に我輩が歸住の諸氏に切望する所の者は其身を政治の境外に置き一切政論に關係せずして獨立するの一事なり華族諸氏が公の爲め又私の爲めに經營すべき事業の多き、商工農製造技藝何れの邊に其手を下すも素より勝手なりと雖も若し政論家を以て自ら任じて時の政談に容喙することもあらば諸氏は地方に名聲を耀かすと同時に又怨恨の府と爲りて社會標準の資格を失ひ遂に帝室に對しても藩塀の効なきに至るべし即ち我輩が政治境外に専ら經營の事業を求むべしと勸むる由縁にして諸氏が能く此則を守ると守らざるとは國の長計に關し又帝室の輕重に關することも大なる可し或は今の時勢に於ては華族が自ら其分限を忘れて漫に政治界に狂奔するの樣子も見えざれば先づ以て安心なりと雖ども若し萬一も舊藩の士民が其政論の歸する所を殊にして舊藩主の歸藩を促し政治上爲めにする所あらんとするが如き掛念もあらば政府に於ては其移住を許可す可らざること當然にして現に宮内大臣の達文にも其目的至當と認るものは聞屆くべしとあるも或は此邊の精神なるべし我輩に於て固より異議ある可らず但し地方移住の事は一二已み難き塲合を除き他は務て華族其人の取捨隨意に任せんこと併せて所望する所のものなり