「老壮交代論(前號の續)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「老壮交代論(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

西洋諸國に於ては近來官吏を採用するに試驗法を以てす即ち官吏登庸試驗と稱するものにして仕進に私の門を啓かざるは文明の法に於て耻ぢざる所なれ共獨り官吏を登庸するに其法あるのみにして偖これを退隱せしむるに途なきものは首尾未だ全しと云ふ可らず進むに登庸の法ありて退くに亦養老の途ありとすれば仕官者は常に安心立命の處を得て官途を賭塲となすの弊害も消滅すべきは我輩の期して疑はざる所なり素より政治家にして資産の充分なるものが國家公衆の爲め若しくは己れ一身の好事のために樂んで政治を事とするならば兎も角も本篇の旨趣は此等の政治家を相手にして立論したるものに非ず官吏の多數即ち官塲に奉公して兼て終身衣食の計を爲さんとする常務官俗吏の一般を指したる次第にして此輩の爲めに養老の法あるときは啻に其人の私を安心せしむるのみならず國の經濟の點に於ても人の爲めに官を存して官の爲めに又その費を增すが如き通弊を免かるゝの利益は少々ならざる可し故に一方に官吏登庸の門を開て他の一方に淘汰の道を塞ぐは事の未だ完全せざるものなり我日本に於ても本年始めて登庸試驗法を定め後來官途仕進の者あれば此法に從て採用することに決したるは文明の美法にして若しも法の如く實際に行はれたらば我輩の最も贊成する所なれども其行はるゝと否とは姑く擱き斯く一方に進むの門を開くからには同時に人を減ずるの法を工風するも又甚だ大切なる可し

王政維新以來は武士の祿制廢せられて家に常祿を有するものなし唯維新の功臣にして政府より賞典の祿を賜はりたるもあるなれ共是等は少數にして殆んど言ふに足らず其外には賞勲年金の規則のみにして勲章を帶ぶる人には終身これに附着したる年金の給與ありと雖も謂ゆる養老金の制度とは全く其性質を殊にするものなり我輩の見る所に於て其性質を備へたりと信ずるものは明治十七年一月我政府の制定したる官吏恩給令にして之より前、陸海兩軍には既に恩給令の設けありしと雖も其事、兵事に屬するものなれば之を論ぜず今爰に恩給令の箇條を見るに官吏滿十五箇年以上奉職し年齢六十に至りて退官を許したる者又は年齢六十に至らざるも滿十五箇年奉職の後廢官廢廳若くは不治の疾に罹り其職に堪へずして官を罷めたるものには終身之を給與す而して恩給の金額は退官現時の俸額に依るものにて奉職滿十五箇年は俸給年額の二百四十分の六十となし爾後滿一箇年毎に二百四十分の一を加へ滿三十五年に至り二百四十分の八十即ち俸給年額三分の一に至て已むものなり又奉職年數の計算は明治四年八月より起算するの定めなりしと云へば恰も昨十九年の八月には十五年以上奉職の官吏にして其年齢六十に昇りたるものが令に依り退隱恩給を乞ふことを得たるの都合ならんと雖も爰に鄙見を陳ずれば奉職十五年の制限は兎も角も虚弱なる東洋人の身體に於て六十の年齢は平均して西洋人の六十歳に異なる所も多くして日本の六十翁、繁劇の事に堪ふる者多からざるの常なれば假令へ六十歳に達せざるも此令の範圍内に於て速に恩給を附與し官途社會を退かしむるの法得策なる可し尚ほ其以下の年齢の人と雖も必ずしも廢官廢廳を期せず又不時の疾病に罹るをも待たず隨時恩給の典に浴するを得せしめたらば本論の精神たる新舊代謝老壮交代の點に於ても大に其便利あるべきことなり日本の恩給令を英國の令に比較するに英國の制限は十箇年以上にして日本の制限は十五箇年なり日本恩給金の最高額は俸給の三分の一なれ共英國の額は其三分の二なるが故に此點に於ても英國が退隱の官吏を待遇するの優なる日本の上に在ること數に於て明白なり又養老金を給與するの精神は必ずしも其老衰を養はしむるの一目的に非ずして半は過去の功勞に酬ひん爲めのものなれば其人の年齢よりも寧ろ在職年限の長短を標準にすべきこと適當にして例へば二十にして官に仕へ奉職三十年を經て五十の齢に達したる人と五十にして官に仕へ十年を過ぎて六旬の老翁となりたる者と孰れの功勞を重しとすべきや後者の前者に及ばざること素より論を俟たず其他尚ほ細目に渉りて議論したらば一家の考案もなきに非ずと雖も實際の事は當局の人の知るべき所にして我輩は之に喙を容るゝ能はざれ共唯今の恩給令なる者に多少の修正を加へ務て老年の人をして其官途社會の地位を後進少壮有爲の人に讓らしむるの途を便利にするを偏に希望して已まざるなり

本論の旨趣を約言すれば時勢の變遷と與に少壮の人を官途にも用ふるの手段大切なれ共先進の老人にして何時までも官途に執着し路を後進に讓らざるの有樣にては社會の人事停滯するの恐あるが故に養老金の法を實施して老壮の交代を速ならしむべしと云ふに在る者なれば今の官吏の數を減ずべし云々は本論の眼目に非ざれども又一方に就て政費節儉官吏減員の議論を實行するにも例の情實論の存在して難澁なる塲合多ければ是れも養老金の法を以て其情實を制止すること難きに非ざる可し兎に角に今日の處にては假令へ官吏の數は同一なりとするも養老恩給の法を行ふて隨て老壮交代の途容易なりとすれば我輩は先づ之を以て一時を滿足する者なり(完)