「 生絲製法の改良を望む 」
このページについて
時事新報に掲載された「 生絲製法の改良を望む 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
生絲製法の改良を望む
外國輸出品中生絲は日本隨一の國産にして昨十九年輸出總額四千七百六十三萬四千七百七十七圓の内一千七百三十二萬一千三百六十一圓は生絲の價なり其盛大なること推して知る可し盖し盛と云ひ大と云ふ只に數量の多きが故に非ず賣代價の中より元價即ち養蠶製絲の諸費を扣除して純益の特に大なるに在るのみ假に昨年の米穀輸出高が一千七百三十二萬餘圓に上ることありしとせんか我輩の悦は决して生絲に於けるが如くならざる可し何となれば賣直の聞えは大なれども純益はその割合に多からざればなり是れ即ち我輩が稻田を廢するも桑園を起すに若かずなど論ずる所以にして今日その論旨の漸く實際に行はるゝを見るは一國經濟の爲めに祝する所なり顧ふに從來我邦の養蠶地は信州上州奥州地方の數箇所にして近來年を逐ふて其生絲輸出の高を増加したるは全く數十百年の昔より成立せる舊産地にて益々勢力を用ひて益々區域を弘め云はヾ舊地を中心點にして其周圍に膨脹したるものなれども現時の勢は之に異なり從前養蠶の地に非ざりし所までも處々に新に業を始めたるは恰も火事の飛火の如き姿にして尋常の觀を爲す可きものに非ず既に本年全國に植付たる桑苗のみにても五千餘萬の數なりと云へば北國中國九州四國到る處に生絲の産出を見る可きは實に容易にして其速力復た前日の比に非ざる可し我輩の滿足この上もなき次第なれども然りと雖ども本邦生絲の事業に向ては猶を遺憾なき能はず殊に其最も甚しきものは製絲に付て器械の用法未だ充分ならざるの一事なり現今專ら行はるゝ所の坐繰法に由るときは或は生絲に必用なる捻りの足らずして使用に不便なるあり或は養蠶家が銘々の手心に任せて製造するが故に絲に大小デニールの不揃を生じて爲めに品格を墜すことも少なからず今若し之を器械製に改むれば以上の諸弊を救ふのみならず絲に誤接も少なきを以て頗る外國織屋の好尚に投じ市價の高きこと遠く坐繰の上に在る可きは絲商人の普く知る所にして我生絲製造の法をして悉く器械に由らしめんことは萬口一致に出づる祈望なれども奈何せん其今日意の如くならざるは數十百年來農工兼帶の舊習未だ全く除かざるに由るものなりと云ふ抑も繭を作るは農の事なり絲を製するは工の業なり二者の間に其労を分つの利は明白なる事實なれども舊養蠶地の人民は先祖傳來の風習に染み我作りたる繭を以て自から絲を製するに非ざれば養蠶の業にあらず若しも製絲の業を他人に譲るときは其家風に背きたるが如き一種奇體の感覺を生ずるものゝ如し而して其製法の祖なるが爲めに仕上げたる生絲を賣て得る所の代金は僅かに原料の價を償ふて製造の手間は全損なるのみならず時としては繭の代をも全く收むる能はざることあれども尚ほ恬として省ざる者多し故に其地方の有志家は十數年來頻りに器械説を主張して製法を改良せんとて鋭意力を盡せども養蠶者にして舊慣を墨守する間は毎人に諭し毎戸に説く可きにもあらず唯年月の久しきを期し人生自然の利心に依頼して改革の行はるゝを待つのみ昨明治十九年六月より本年五月に至る一年度の間に直輸出を別にして横濱にて外商に賣込みたる分は總て三萬九千二百十七個なれども其内器械絲は一萬六千九百三十一個に出でず習慣の深くして改良の容易ならざるや此の如し若しも上州福島等の産地にて（信州には器械製多しと云ふ）其蠶桑の業を起すの当時に在て始より農工分業の法を用ひたらんには今日の困難なくして輸出の利は一層大なりしならんなれども既に惡癖を成したる以上は徐ろに回復の道に就くの外なかる可し但し四國九州中國等の如き今日新たに業を始むるの地方は習慣未だ成らず物産將に出でんとする屈竟の際なれば今より分業の旨を守りて决して舊養蠶地の尤に傚ふ可らず或は然らずして此等の地方までも舊地に等しき惡癖を成すが如きありては異日また器械使用の困難を生ずること如何ばかりなる可きや殷鑑遠からず舊養蠶地今日の現状を見る可し去れば土地の資本家は早くも此邊に着眼し先非を襲ふて後悔を遺すなくんば我邦重要の國産は益々其利を收めて両三年の後は舊地の改良も漸く成り新地には純然たる器械製の品を出し日本生絲の輸出は其數量の増すと共にいよいよ海外に聲價を鳴らすに至るべし是れ吾輩の鄙見を陳じて普く實業家に希望する由縁なり