「朝令暮改咎む可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「朝令暮改咎む可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

朝令暮改咎む可らず

政府の新令を布き若しくは舊令を改むるの塲合に於て豫め事の利害得失を判斷して苟めにも首尾前後の考を忽にす可らざるは論を竢たざる次第なれども錯雑なる人事世界の習として豫算實際往々相符合せざるも免れ難き所なれば人生百事豫想の外に逸出して人をして愕然たらしむる者も少からず即ち政府部内の人と雖も別に鬼神の明あるにも非ずして滔々たる人知不完全の同門種族なれば其執る所の主義方向も時に豫定の目的を外れて他日不都合を見出すことあるは各國古今の例として見るべき者なり人事世界に於ては如何ともす可らざる次第にして當局者の斯る塲合に際するあらば速に其不都合の箇條を變革し過を改むるに吝ならざらんこと政府の美徳なりとして我輩は少しも之を咎めざる可し然るに古來法令の屡々變更するを朝令暮改と稱して政治上最も戒むべき者と爲したるは前條我輩の精神と相反する所あるに似たれ共元來格言は政府の未だ法令を出さざる前を戒しめたるものにして一度國法と定めたる所のものは容易に變更す可らず朝に命令を發して暮に改るが如き不都合なき樣にと事の初めに用心せしむるまでの次第にして既に一度發令したる上は善悪利害の如何をも問はず一概一向に押通すべしと頑然過を改めざるの主義を賛成したるに非ざるは理に於て明白なる可し或は世の論者の中には政府を以て理論上完全無缺のものと看做して適々其施政に誤あるを發見すれば隨て其虚に乗じて攻撃を逞ふせんとする人もあらんかなれども此等は言はゞ人知不完全の世界に有られまじき空想を以て他人の過を責むる者にして其議論酷なりと云はざる可らず故に政府に於ても實際の不都合を見出しながら若しも中途に變更したらば物議の點も如何あるべしなど何にか其邊に掛念して改正斷行の勇氣を示さゞるが如きは男兒らしき處置にあらず其法令にして果して實地不都合の已む可らざる次第もあらば朝令暮改して之に幾多の變更を重ぬるも敢て差支なかる可きのみ

政府の法令も人事不完全の一部に屬する者にして時と塲合に應じては朝令暮改も實地已む可らざる手段なりとして爰に聊か我輩の鄙見を陳ぜんならば本年の四五月頃なり世間に於て非常に噪かりしプールス説も賭博同然の投機事業を防がんとするの點に於ては道理至極の考案にして米商會所若くは株式取引所の類の如きは其射利競爭も最も甚しく、商賣上の徳義を害して如何なる危險を醸さんも知る可らずと遂にプールス説を促し來りて政府も取引所條例を制定し彌よ本年の九月一日より施行の手續なりしかども規則準則の發布或は全からざる所もあり委員本人の情實折合はざる邊もありて彼是種々の入組みたる事情より取引所新設の相談も纏まらず兎角する内政府の命にて從來の米商會所株式取引所與に一箇年の延期を許可せられたるは近日の出來事なり我輩は最初よりプールス論者にも非ず又元の株式組織説に黨する者にも非ずと雖も二者孰れにするも投機の事業に君子の徳を求むるは所詮無益の願望なりと信じたれば新取引所の設立に對しても賛成を表せず若しも在來の會所取引所に仕組の不完全なる處もあらば之に改正を加ふる丈けにして充分なり折角の新取引所を設くるも別に利益の見る可き者あらずして新舊轉換の間に在來の商人等をして其財産を失はしむるは無益の騒動なりと嘗て其次第をも紙上に開陳したるに我輩の議論行はれずして彌彌新條例發布の今日に至りて偖實際の有樣を如何にと云ふに新舊組織の交代の困難なること殆んど我輩の豫想外に出でたる所にして政府も是に視るの明あり取敢へず新條例の實施まで一箇年の猶豫を許されたるは救急の策として最も其當を得たる處置なれども我輩は尚ほ舊説を執て變ずること能はず今日の實際に於て新條例の實地に困難あらば断然これを癈して舊會所取引所を其まゝに存し一箇年の猶豫と云はずして例の如く五箇年を許し其中に次第に改良を施し商人の品格上進すると共に會所取引所の有樣も次第に正に歸せしむるの工風肝要なる可し即ち無益の變動を鎮めて商賣の安寧を維持するの得策ならんと信ずるものなり

又目下の問題たる十州鹽田組合紛議の元を尋ぬるに去る明治十八年八月愛媛縣達の鹽田組合規則に基き中國四國都合十箇州の製鹽地方を一の同盟組合と爲さしめ一年中採鹽の季節を六箇月と定めて其間のみ専ら鹽田を耕し殘る六箇月は組合中に採鹽を禁じたるより抑も抑も其爭の端を開き愛媛縣下の鹽民は一村一部落の生活を擧げて採鹽の一業に托する者なるに組合本則に縛られて年の一半を徒手遊食に費す如きは製鹽上全體の利害得失は兎も角も鹽民衣食住の點に於て甚だ不都合なる次第なりとて同盟脱去を企てたるに本部に於ては是を規則に戻る者なりとして法庭に告訴し一先づ採鹽を停止せられて現時悶着の際中なるは讀者の知る所なる可し食鹽は人生必需の要品にして其價の不廉なるは生計の不便を促すべき由縁なるが故に成る可くは其製造の競爭を自由に任せて供給の途を饒かならしむるの手段大切なれば鹽田組合の法と雖も無くて済む者なりとすれば始めより設けざること萬全の策にして殊に又十州とのみ其制限を立たるも如何なる精神なりや縱令へ日本國の製鹽地方は重に十州なりとするにもせよ其他九州なり東國なり國中孰れの海濱にも鹽を産せざる所なければ十州の製鹽者のみ獨り右同盟の來傳を蒙むりながら他方と充分の競爭を爲す能はざるは視易きの條理なる可し是に由て之を觀れば曩に政府の此法令を定めたる時の主義方向は偖置き實際の事情の不完全なる人知を持って斯く豫め知る能はざりしは如何ともす可らざる次第にして必ずしも當局者の失敗と云ふ可き者にあらず故に實際に其不都合を見出して疑ひもなくば是れも一時の便宜を以て法の施行を停止するこそ政府公明の政策なれ人事の不如意なる世界に在りては官民互に相恕し時に過ちを問はざるは大に人の美徳とする所なる可し