「外國行の日本學生」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「外國行の日本學生」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

外國行の日本學生

ドクトルセメンズ原文

教育の事に就て日本國は近年驚く可き進歩を爲したりと雖も自國の學校に於て西洋の學問

と西洋の語を學び得ること西洋諸國に於て教育を受るが如く完全無缺ならんとするは日本

人の爲めに難きことなり故に天性怜悧にして功名心ある當國の學生が此目的を達せんとて

學問の叢淵たる西洋の國に行かんことを願ふは誠に無理ならぬことなれども爰に不都合な

るは此事を實行する爲め割合に費用の莫大なる一事なり故に日本人の爲めに謀りて斯る遠

國に行き斯る大金を費さんと决斷する其前に先づ以て熟慮勘辨するは甚だ大切なることな

り殊に其洋行生が入用の金を他人に借るか又は兩親が其子の爲めに學費を作らんとて非常

に身を詰め儉約するが如き塲合には尚更らのことなり抑も學生が洋行するからには其歸來

の上は彼の留學中に學び得たる所のものを利用して多分の金を作り後に得る所は前に費し

たるものよりも多く以て前日の借用を拂ひ又は兩親の老餘を安樂にして恩に報するに足る

可しと信するは勿論のことなれども余は一言これを評して甚だしき投機なりと云はざるを

得ず即ち其實は賭博の一種にして株式の取引の如く米の相塲の如く又骨牌の勝負の如く危

險至極の事共なり學生が歐米の學校に卒業せんとするには是非とも四年の本課程を踐むの

覺悟なかる可らず尚ほ其上にも直に此課程に入るを得る者は甚だ稀なる可し其次第は第一

日本の學生は外國の語に通ずること十分ならざればなり假令へ日本の大學校を卒業したる

者にても尚ほ不十分なる可し第二若しも大學校の卒業生にあらざれば其從來學び得たる學

課は西洋諸學校の組織に同しからざるが爲め或る課目に對しては學力〓りありながら他の

課目には不足して本課に入ること難ければなり斯る次第にして何れにも餘分の光陰一箇年

を費すことなればいよいよ學課を終りて卒業證書を得るは五箇年の事と知る可し

扨右の目的を達する爲めに五箇年の學費と徃來の旅費とを計算するときは少なくとも六千

円なる可し而して當國に於て六千円の數の大金たることは誰れ人も知る所ならん此金圓あ

るば之を資本として普通の事業を興すに足る可く又或は八分の利子を計算しても四百八十

圓の収入あり即ち四十圓の月給に當るものにして之に依據すれば何等の仕事をも爲すに及

ばず相當の暮しにて小人數の一家を支るに足る可し左れば余は六千圓金の〓却を疑はしと

したれども實は十中の八九疑はしきのみならず畢竟能はざることなりと云はざるを得ず是

即ち余るが投機賭博の評を下だす由縁なり外國の學校のみならず何れの學校にても之に入

學して得る所の教育は大概皆純粹の專門學術ならざるはなし何れの國に於ても單に專門の

學術上に教えられたる者は後年に至り唯僅に豐ならざる月給取と爲りて半生を終るのみ歐

米に於て大學卒業生の數は千萬啻ならずして其所得は上等の大工左官の日雇賃に及ばざる

者多し而して其大工左官は生涯の間に一箇年より永く學校に出入したる者にあらず又世の

奇相とも云ふ可きは專門の學術に教えられて年齢二十二三歳までも學校に出入したる者が

事業家と爲りて富を致したる例の稀なる事實なり盖し其教育は却て本人をして此種の働に

不適當ならしめたるものゝ如し故に此輩は往々事業家に使用せられて書記若くは助手の用

を勤ること簿記方に異ならずして給料も亦大抵同樣なるを常とす左れば日本に於て殖産商

工の事業大に發達したりとて蝶々する者多けれども其事業に付き學術專門の學者を要する

ものは甚だ少なくして今後數年の後も亦同樣なる可し今日既に此種の學者は需要よりも供

給の方、超過するよし余が傳聞したる所なれば目下の要は純粹の學者よりも實業者に在る

の時節にして其實業者の教育は割合に深き學識を授るに及ばざる者なり

以上の所記果して違ふことなくんば六千圓金を借用し西洋教育の方便を以て之を償却せん

とする少年生は如何す可きや或は外國に行くも必ずしも卒業に志すに非ずして留學僅に兩

三年なる者もあらんと雖も尚ほ二三千の金圓なかる可らず既に之を費したる上は歸國の後、

何か事業に就き數年の艱難辛苦を以て元利を償却せんとするも最上の好都合にて尚ほ且つ

覺束なきことなれば其艱難辛苦は恰も生涯の間、首に掛けたる石碾に等しかる可きのみ故

に余は世間の父母又は友人に向て一言を呈し苟も家に餘財あるに非ざるより以下は其子弟

が投機樣の功名心を以て熱して洋行留學を願ふことあるも容易に之に致さるゝなきを忠告

するものなり