「獨逸老帝崩御」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「獨逸老帝崩御」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

獨逸老帝崩御

獨逸老帝ウヰルヘルム陛下には昨九日午前八時三十分を以て崩御せられたる旨別項にも記

するが如し帝の崩御あるに於ては日耳曼帝國臣民の悲哀は申すまでもなき事にて我々外國

の臣民たりと雖も其訃音に接しては哀悼の念の已み難き、交親國民の情に照らし誼に訴へ

て斯くこそ有る可き者なれば凡そ坤與の上に於て崩御の訃音致電して傳はる處何れも悲愁

の思ひを爲さゞる者はある可らず

然りと雖も老帝の聖壽本年既に九十有一なれば天命に於て憾ありと云ふ可らず將た人事々

業上の歴數より之を言ふも古來各國の帝王中老帝の如く能く偉大の功を奏して勢威を内外

に輝かしたる者あるを聞かず徃時晋魯西建國の基礎堅からずして佛蘭西の爲に屡々兵禍を

蒙むるに當りては帝の苦心軫念如何許りなりしならんかと我輩當時の史乘を閲して轉た感

慨の切なるを覺えざりし程なれども後ち次第にして帝は民力を養ひ國力を強しビスマルク、

モルトケ諸臣の補翼を受けて千八百六十六年には墺地利をサドワに破り尋て七十年の戰ひ

にはナポレオンをセダンに擒にし是に於て日耳曼帝國の基礎始て成り爾來今日に至る迄歐

洲和戰の大權を一身に掌握し日耳曼の聲威四隣に輝き露の強暴なる、佛の剽悍なる、皆睥

睨爲す所あらんと欲すれども老帝の烱眼に畏避して敢て遽に發せざりし其威光大なりと云

ふ可し全威全權斯くも到らざる處なき榮華を極めたる人生の至境は老帝に於て盡きたりと

申さんのみ

抑も抑も又一方より考ふれば歐洲列國の形勢は日に月に危急に迫るものにして東方事件の

爭ひは全歐大戰の媒たらんこと識者の既に憂ふる所なれば帝が此間に不安の歐洲を永遠、

跡に見捨てんこと軫念に堪えざりしは我輩の窃に信ずる所なり特に皇太子の病勢も今日に

在りては未だ快復の報に接し得ざるのみならず時に老帝に先だちて皇太子の訃音を聞くこ

となからんかと世人一般憂慮したる程なれば今後或は第二の凶報に會する會するなきを期

し難し隨て今の皇太孫の天資總明剛毅なるは世に隱れなき事實なれども尚ほ未だ妙齢なれ

ば其威望皇太子に及ばざるは勿論にして特に補弼の臣たる可きビスマルク、モルトグの諸

人殘餘の生命、將に朽ちんとするの今日なれば爾今爾後歐洲列國の形勢もこれに連れて如

何に成行く者ならんか掛念に堪えず左れども此等は重要の問題にして早急に之を論ずる能

はざれば唯爰に喪を吊らひ我々外國臣民の敬意を表するの傍ら聊か老帝の傳記を略叙し諸

君と興に併せて其事業の大なるを仰ふがんと欲するなり

帝は千七百九十七年三月廿二日に降誕せられ皇父はフレデリツク ウヰリヤム第三世、皇

母はメクレツボルクストレリイヅ侯國のロイ后妃にして幼年に在ては武官たるの教育を受

け千八百十三年及び千八百十五年の兩戰爭(佛蘭西との戰爭)にも出陣ありたり千八百四

十年ポメラニヤ(普漏西の一州)知事に任じ千八百四十八年佛國の革命に引續き普漏西に

内訌の起りしまでは其任にありたるも革命の際暫らく遁れて英國に隱れ同年間もなくコン

スチチユーエントアツセンブリーの議員に撰擧されたるを以て伯林に還りて其年六月議員

の席を占め千八百四十九年六月普漏西兵の元帥となりてペーデン侯國の革命兵と戰ひ千八

百五十八年皇兄フレデリツク ウヰリヤム 第四世の攝政に任し貴族黨を排斥して自由改

進の政略を執り千八百六十一年皇兄の太子なくして崩せらるゝに及ひ同年十月十八日其後

を承てコングスベルグに於て普漏西國王の位に即かれたり帝の即位後に執りたる政略は即

位前に帝に望みを屬し居たる人々をして失望せしむるに至りたるは外ならず即ち帝は位に

即くや直に國會との間に爭端を開き爾後紛議に紛議を重ねて千八百六十二年ビスマーク公

を總理大臣としたる後ちは殆んど内亂を惹起すべき勢に迫りたるに恰も好し當時墺地利普

漏西の兩國相謀りて丁抹國と兵を交ゆるに至りたれば人心自から内國の事を顧るに暇あら

ずして、斯くて此戰爭の終りたる其後は帝の位置漸く固く民心の不平も平穩に歸したりさ

れど帝は素より丁抹の一部を其版圖に加ふるを以て滿足するものにあらざればビスマーク

公に輔佐され斷然奮起して今一層大望を企て兵力を以て全日耳曼を統御するの位地に昇ら

んことを謀り數年間專ら兵備に力を盡し千八百六十六年の初頃は早や既に其計畫熟して何

時にても實施し得るの有樣となりたれば先づ伊太利と同盟の約を結び日耳曼北部の小國に

最後の談判書を贈り大軍を動かして以て國威を示し同年六月墺地利に對して戰爭を布告し

少時戰鬪の後ち遂に墺地利より和を請ふに至りたり此戰爭には帝及び皇子にも常に出陣あ

りて之に使用したる新發明の針打銃は墺軍中に恐怖を惹き起して其の將官をして斯の如き

鋭器には到底敵すべからずと云はしむるに至りたり

斯て千八百六十七年に普漏西王は北日耳曼聯邦の首座を占むることとなりたるが此聯邦は

二十二箇國にして其人口總計二千九百萬なり夫より千八百七十年に至り西班牙の王位をホ

エンゾルレン公に繼續せしむるの議につき普佛の間に紛議を生し爲めに佛國の人心を激昻

せしめたるを以て佛國は普國に對して宣戰を布告し次きて兩國の間に戰を開きたるも遂に

普兵の勝利となり巴里を圍みて普國より取極めたる平和條約を締結せしめ是に於て帝は全

日耳曼を統御するの素志を貫徹して千八百七十一年一月十八日佛京の宮殿に於て日耳曼の

諸公侯を會し普漏西王ヴヰルヘルムは自今獨逸皇帝と稱する旨を披露したり帝は千八百七

十二年の秋伯林に於て露西亞及び墺地利の兩帝に會合し同年十月サン ジヤンの境界事件

につき英米両國の政府より仲裁の依頼を受け英國の敗訴となるべき裁决をなし千八百七十

三年四月聖彼得斯偈に於て露帝に同年十月維也納に於て墺帝に會せられ又普國ローマン 

カゾリツク 教の事件に就き羅馬法皇との間に文通徃復をなしたること數回に及び千八百

七十三年十月十四日伯林に於て其文を出版したり千八百七十五年五月露帝は伯林に臨まれ

て帝に會す後ち千八百七十八年五月十一日午後伯林に於て帝を弑せんと計るものありたれ

ども事成らずして茲に捕縛されたり右の兇徒はレイプズイクより來り名をエミルホーブル

と云へる社會黨の壯士にて最初拳銃を以て二發まで帝を狙撃したるも帝は馬車中に在て自

若として驚く氣色なく朕を狙撃するは如何なる兇徒なる歟と陪乘の侍臣に尋ねられたるよ

し其後兇徒は警官に引渡されたるが警官の審問に答へて余は素より人を殺さんとの存意あ

るに非ざれ共今の世の有樣にては職業に就くを得ずして生計甚だ困難を極め自殺せんと迄

に心を决したる次第なれば事の茲に及たるなりと白状し式の通りの手續を經て刑に處せら

れたり又千八百七十八年六月二日再び帝を弑せんとするものありたるが此時帝は動植園に

臨幸の途中にて或る家の窓より二發の彈丸飛び來り帝は數箇所に傷を負はれたれば直に皇

居に還幸ありて醫師の診察を受け治療其効を奏したり此暗殺者は學士ノビリングなる者の

由にて帝を狙撃したる後自殺を計りたれども成らずして捕はれ病院に送られたる後ち間も

なく死去したり帝は再び千八百八十四年九月スキエルネヴイヅに於て千八百八十五年クレ

ムレイエルに於て露墺の兩帝に會合し昨千八百八十七年も露帝に會し昨年の三月を以て九

十年の祝祭を伯林に執行したり帝は千八百二十九年六月十一日ウエイマール侯國チヤレス 

フレヂリツク ウヰリヤム 皇女ロイメーリーの兩子を設けられロイメーリー皇女は千八

百五十六年ベーデン侯國のフレデリツク ウヰリヤム 公に嫁せられたりと云へり