「日本の工商業家に告ぐ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本の工商業家に告ぐ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の工商業家に告ぐ

在英國 高橋 達

兵家の語に勝を制するは彼を知り己を知るを要すとあれども兵事のみ獨り然るに非ずして

商工の業亦此の如くならざるなし左れば勝算を一社一局の内に畫して其利を千百里外の市

塲に制するに當りては正奇運轉の策容易に人の端倪するを得ざるは論を竢たざる所なるが

故に予輩實驗に乏しき者傍らより之に喙を容れんとするは謂ゆる僭越の次第にして人の誹

りを免れざるならんかと信ずれども然れども我國現時の状勢たるや吾人同胞互に相告げ相

戒ましめて國の利福を計らざる可らざるの今日なれば徒に人の言を憚り我志を陳べざるも

本旨ならざるを自認し一言以て日本商工業家に質す所あらんとするなり偖熟々我國近來の

世潮を推測するに其現像の最も偉大にして我々在外の客を驚かす者は合本工商會社設立の

企て是なり聞く所に據るに昨二十年間の募集資本合計一億二千萬圓なりと(縦令へ名のみ

なるにもせよ)日本の如き貧小國にて殊に七八年來の不景氣、民間の疾苦未だ癒えざるの

今日に斯る大金を突然工商業に吸収する事ともならば國の經濟は果して如何に成徃く可き

や掛念に堪へず先年各地の士族遽に其祿券を本にして一百五十の銀行を創設したる其結果

は流動資本の額を増し一時經濟の運行を助けたるに反對し今は日本の市塲より莫大の流動

資本を減ぜんとするの擧なれば前途其事業の成否如何んに就ては豫め之に處するの覺悟あ

ること大切なる可し素より斯る事業に對しては予輩决して不同意を唱へざるのみならず文

明進歩人智開發の結果ならんとして偏に之を悦ぶ者なれとも偖其悦びを永遠に保たんには

先つ其憂ふべく慮るべき者を察し之を避くるの用意工風必要ならんと信ずるが故に試に爰

に其憂慮す可き點々を擧げんに

 第一 起業の熱

 第二 豐凶作の考へ

 第三 擔任者の技倆

 第四 將來事業の見込み

 第五 外商の競爭

 第六 仔産物の關係

 第七 東西資本流通の相違

 第八 共同連合の要用

予輩は第一より順を逐て解釋を下さんにヂエボンス博士の商勢順環考に據れば英國の如き

は千七百十一年來商潮の盈縮概ね毎十一年に一回の割合なりしことは事實に照らして判然

たり而して起業熱の盛んなるに當りては何種の事業と雖も起らざるなく、起る所の事業な

れば又必ず利益あらざるなきを以て人々欣んで嚢底を傾け金力悉く此一點に聚まり流動固

着の両資本互に權衡を失して之に次ぐに天候不時、凶歉の災を以てする時は社會の購買力

消費力俄に萎縮し精巧の器械其運轉を止めて勞力者無業に苦むは必然なりと云へり鄙見を

以てするに英國千八百四十七年の大不景氣を釀したる其原因は千八百二十九年スチーブン

氏始めてストツクトン、ダーリントンの間に鐵道を敷き好結果を奏したるより之に尋で鐵

道事業四方に起り爾來十餘年の其間は到る處に其熱盛んならざるなく株券の騰貴一層其狂

瀾を助けて世の流動資本大抵鐵道事業に吸収せられ其際適々愛蘭に蝗害起り延て全國に及

ぼして歳爰に凶餒を告げ人民殆んど食なきに苦み反働の結果遂に輸穀税則の廢棄を促し自

由貿易の門是に於て開けたるは世人の記臆する所なる可し爾来今日に至るも同年十二月の

金曜日、各店營業を中止し非常の騒ぎを釀したる其當日を暗黒金曜日と稱し恐惶の災の記

念となすは當時の慘状想ひ見る可し日本に於ても今日の如く鐵道事業東西並び起るに際し

ては豫め後日の針路を察し其潮勢に處するの用意ある可きこと大切なり

第二に日本は古來農を以て建國の本となしたる國柄なれば天候不時適々凶荒を下し擧國餓

〓(草冠に旧字の浮くのつくり)に苦むの一事最も大患なりとす經濟學者の説に據れば温

帯若くは熱帶に位し專ら天惠に依て耕作を事とする國に在りては凡そ十年毎に天、時に其

惠を與へずして却て之に災害を下すを例となす者なれども平生天惠に慣れたる人民の常と

して平時聊かも不時の變に注意せず只管豐年に奢侈を極めて適々凶歉に會すれば餓死する

を免れず之を彼の寒國の人民が平生學術の作用に依り又備荒手段を忽がせにせずして天災

を避るの趣に較ぶるに温熱帶天惠特殊の國民は斯る塲合に一層の難を蒙むる者なりと云へ

り我日本は温帶至良の國土にして寒からず熱からず加ふるに地味豐饒の有樣は歐米諸國の

遙に及ばざる所ならんと雖も平生節儉の風に乏しく謂ゆる今日あるを知つて未だ明日ある

を悟らざる者比々是なるが故に一朝若し凶年ならば彼等は如何にして之に處するの覺悟な

りや予輩の憂ふる所なり

第三、擔當者技倆の巧拙如何んに就ては予輩局外より叨りに其人を評する能はざれども近

時諸工業器械等買入れの爲め英國に來遊する日本の人士に向ひ試に其所見を叩くに動もす

れば曰ふ規模狹小の器械は製産力少くして運轉の費用殆んど大器械に殊ならず經濟上不利

益の次第なれば寧ろ多くの金を投ずるも宏大の器械を買入れ製造の規模を盛んにするは日

本現今の急務とする所なりと是れ自から一説ならんと雖も予輩は全く之に同意する能はず

譬ふるに資本は猶ほ兵の如く兵を帥ふるには別に其將なかる可らず然るに日本の工商業家

は此要點に着目せずして唯徒に資本を聚め器械を購へば事業立所に成る者なりとの虚想を

懷き、正當なる事業家の爲めに其資本を供するの順路を取らずして豫め先づ資本を募り而

して後ち之に着手す可き事業家の有無如何んを穿索する如きの逆路を求むるは本末前後の

關係を誤る甚しと云はざる可らず工商業の成否利損は資本の多少よりも之に當る人物の能

不能に原由するは明白の理なれども日本の起業者に殆んど此等の思想なきは怪しむに堪へ

ず(未完)