「土地賣買の氣勢」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「土地賣買の氣勢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

土地賣買の氣勢

人間の生存に缺く可らざるものは富なり富を産出するの要素は土地を以て最大なりとす然

るに土地の分配は古來種々の沿革を經過して歐洲諸國の如き其不平均なること甚だしく少

數の富豪者は獨り之を占有して得々たれども多數の細民は其下に勞働して唯役々たるの事

實多しといふ盖し事に當りて力を盡すと盡さざるとは其身に利害痛痒を感するの多少によ

りて差違あるものなれば今若し千頃の美田を有する富豪者が偶々百石の所得を減じたれば

とて之に對する痛苦の度は左まで重しと云ふにも非ざるが故に飽まで百石を減せざらんと

欲するの奮發心も亦隨て薄からんなれども百畝の地主が時に十石の収穫を減することもあ

りとせんか一家の經濟に影響を及ぼすこと容易ならざれば粉骨碎身あらん限りの力を盡し

て及ぶべき丈け収穫を増さんことを勉むるなる可し即ち大地主は生産の増殖、土地の改良

等萬事に付けて注意を加ふること淺きに傾き小地主は營々として唯及ばざらんことを是れ

懼るゝの事情を見る可し左れば一國の生産上より觀察して少数の大地主に土地を占有せし

むると多數の小地主に分割するとの利害を如何と尋ねたらば後者の利なること固より論を

俟たざる所なり將た人間の權利上より之を察するも優勝劣敗は勢の免れ難き所にして金力

の多き所には權力も亦これに伴ひ貧困の者は常に富豪の配下に屈從せざるを得ずして貧富

の相去る遠ければ遠きに隨ひ益々權利の平衡を失すること甚だしきに至るものなれば今夫

れ生産の最大要素たる土地を擧げて之を少數富豪者の占有に任ずるときは地主は獨り威福

を恣まゝにして之に附從する勞力者は毫も權利を伸ぶること能はず遂に餘儀なく唯命これ

從ふて名は奴隷に非ざるも其實は全く奴隷となり到底浮む瀬なきの有樣に陥ゐるを免れず

况んや有力者の獨り土地を兼併するは細民の責任心を減ずるの基にして責任心の減少は人

口の増加を速にし人口の増加は貧困をして益々貧困ならしむるの事例古來歴々徴すべきも

のあることなれば西洋學者輩の所論も今は漸く小地主の多數を可とするに歸したるものゝ

如し尤も英國の經濟學者中には社會の生産事業を唯自由競爭に一人せんと論ずるもあれど

も生産要素の分配極めて不平等の状態にては如何にしても自由競爭の行はるべき謂れなし

とて獨逸其他の講壇學派の人々の如きは口を極めて殊に土地分配の不都合なるを論じ此般

の事は政府の宜しく干渉すべき所のものなり云々とて議論眞最中の趣なれども誰か知らん

東洋の一偶に位せる日本國にては土地の分配その最も宜しきを得て古來多數の小地主に分

れ耕地の大概は所謂五反百姓の手に歸して殆んど經濟上至公の進路を直行したるものあら

んとは遙に西洋諸國に向て其美を誇るに足るものと云ふべし

然るに近來世間の不景氣にして金融の閑慢なるが爲め資本家の中に往々眼を轉じて土地を

購買せんと欲する者あれば地主も亦樣々の事情に迫られて之を賣却せんとするの状况に立

到りて殊に地券なるものゝ出でゝより不動産も動産に異ならずこの賣買甚だ容易なれば思

慮もなく朝に地券を賣りて夕に一杯の清酒を貪ぼるなどの談柄も度々吾人の耳にする所に

して從來立派なる地持百姓も往々將に轉じて地主の奴隷たらんとするの傾向ありと云ふ洵

に傍観に忍びざる次第にして歐洲諸國にては頻りに土地兼併を非として成るべく小民に分

割せんとするの折柄我國にては却て漸く富豪專有の弊に近寄りつゝあることを知らず識者

の痛心する所なりと雖も然れども此事たるや金満家に對して強て物を買ふ可らずと咎む可

きにも非れば寧ろ此等の地主農夫に向て其所有地を賣る勿れと勸むるの外ある可らざるな

り盖し今日に當りて土地を賣る者は之を所有したればとて到底引合はずと云ふにあるも

のゝ如しと雖も是れは甚だ短虜なる早計にして數百年來の經驗に徴し地持百姓は其生活華

美なるを得ざるも失敗倒産の禍少なく人間諸種の財産の中にて地面こそ最も平和にして最

も安全なる寶として之を尊重したるは今更疑ふ可くもあらざれば假令へ近來の地主にして

多少の不利あるも一時の變相として之を忍び以て祖先傳來の所有權を失ふなからんこと我

輩の勸告する所なり喩へば爰に人あり生來三十歳に至るまで米麥を常食として無病健康な

りしに近來凡そ六ケ月穀物を食ふて不消化を感じたりとて終生米麥の食を絶たんとする者

あらば之を評して無謀短慮の人と云ふことならん然らば今土地は三百年來(假に三百と云

ふ)最良最安の財産なりしに近來凡そ五ケ年その利ならざるを見たりとて俄に之を手放さ

んとするは六ケ月の不消化に狼狽して三十年來の常食を絶つものに異ならず智者の事と云

ふ可らざるなり盖し此六ケ月の不消化は食物の罪に非ずして身に病あるが故なり五ケ年の

不利も亦斯の如し畢竟土地の罪には非ずして之をして不利ならしめたるものは別に其原因

あるが故に他年一日天下の理財法を回復して常態を呈するときは土地所有の利益も亦必ず

舊に復せざるを得ず我輩は斷して今日其賣却の不利を言ふ者なり(未完)