「耶蘇敎を入るゝか佛法を改良するか」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「耶蘇敎を入るゝか佛法を改良するか」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の宗敎道コとして時勢の求に投ず可きものは耶蘇敎に非ざれば即ち改良したる佛法の

二者に外ならず中に就き佛法を改良するよりも寧ろ耶蘇敎を入るゝの優れるは聊か余が信

ずる所なれども今此紙上には其事に論及せざる可し兎に角に日本佛法中の或る部分は餘り

卑近にして其文明開化の現状に伴へる智識の度に釣合はざるや甚だ明白なり今この紙上に

於て余が日本の宗敎道コの問題に心を置く人々の注意を惹かんとするの一事は地獄の敎是

なり請ふ暫く余の經驗より敍せん」余が幼穉のとき年の一月十六日に縱覽を許されたる佛

家の繪を見んため或る寺院に往けり世俗の言に據れば未來に地獄と云ふものあり其地獄に

て釜の蓋の開くは一年僅かに二度にして一月十六日は即ち其一なりと余は時の信仰には至

て澹泊なる家に生れて成長したるものなれば佛家の繪を見るも一片好奇の念に過ぎざりし

が其十の七八は子供心にさへ非常に恐怖を感じ何故に地獄の繪は斯くまでに多くして極樂

の繪は左樣に少なきものか更に合點すること能はず只人間の猛惡に於ける想像は無限にし

て涯際の知る可らざるに驚きたるのみ今この地獄の繪には荒鬼に策たれつゝ劍の山に追上

げらるゝものあり數十の體は大釜に陥りて赤蝦の如くに〓〔者+火・に〕らるゝものあり

惡魔の杵を受けて舂の中にて粉末の如くに搗かるゝものあり捻ぢ廻されたる兩手を柱に結

付けられ再び虚言を吐かぬ爲めとて釘抜もて舌を拔かるゝものあり懷姙して死したる女は

血潮の池に沈められ子供が鬼の鐵棒に嚇されるものあり殘酷の状實に見るに忍びず顧みて

極樂の圖を眺むれば虚無清浄靜かに蓮花の上に休むのみ空々又空々、何の樂むべきものあ

るを知らず之を要するに地獄の景色は妄りに騒々しくして有ると有らゆる慘状を盡し極樂

の景色は平々淡々人世に享くべき樂の一つだにあることなし

余は十分に佛法の哲理を尊ぶものなれば尊信の餘り敢て疑を質さんとするは他に非ず即ち

地獄の説は今日泰西の文明に向て斯くも長足の進歩をなし居れる日本人民の宗敎の一部と

爲すに足るや否やの問題なり斯る恐怖殘忍の繪畫は以て人間の感情を導いて最も高尚の域

に進め得べきや疑なきを得ず抑も酷罰の至るを恐れしむるのみにして賞報の望なき敎は人

生の優しき情感を鈍くするものにしてエス、ホーモの筆者は此情感を稱して道コの情感と

名けたり盖し~の子女たる衆生の心を健全無病ならしむるは此優しき情感の修養と發達と

に由らざるはなし何となれば近代の敎育に於ても人のコ心肉體智識拐~の發達を以て其大

主義なりと公言すればなり日本人民も亦社會の風潮を清め銘々の品行を修め宗敎勸化の力

に由て人心の至寶たる忠恕と好意は惡事を行はんとして敢て行ふ能はざるの程度に至るま

で敎育を蒙らざる可らず果して然らば巌罰を以て嚇すは無用の沙汰にして唯忠恕と好意と

を養成すれば必ず人間世界に巌罰の用を見ざるに至るべし假令へ巖罰を以て嚇すべき塲合

あるも温言之を諭して其本心に訴へ假りにも恐怖を以て迫る可らざるなり左れば死後の苦

難を示すが爲めに斯る恐ろしき繪を畫き以て人心を荒くし其感覺を獸にするの要用あるを

見ず人生の優しき情感にして一度び滅却するときは最早や人にして人に非ず單に生きたる

器械たる可きのみ

彼の有害なる地獄の繪は心なき佛者の方便として捏造したるものにあらずや日本人民は之

れに致されて淺ましくも恐怖の底に沈み卑俗汚劣の境遇に至りたりと思へば外の國に對し

他の人に向て何として面目の立つべきや耻辱の大なる勝げて言ふに堪へず何物の愚か敢て

萬物の主宰たる~靈の六合に渉れる好意を蔽はんとするや歎きても猶ほ餘ありと云ふべし

然れども彼等の方便は人情の進み文明の高まるに隨て其火勢に由て遂に燃去るべきものな

らんのみ世の考なき婦人が幽靈の談を以て子供を嚇すを見る毎に余は未だ曾て喟然として

長大息せざるはなし扨も憐れなる子供なるかな此uなくして害ある迷信妄誕の空説を以て

恐壓せらるゝとは氣の毒なる次第なりと獨り自から歎息する所なりしが今匹夫匹婦が野蠻

らしくも地獄を以て嚇さるゝものは恰も小供の愚母に於けるが如し愚母の怪を語て子供を

嚇すは慈愛の仁に過つものならんなれども地獄の敎たる少しく趣を殊にし全く故意に此恐

嚇の法を用ふる輩の作爲に出たるものとすれば更に惆悵に堪へざるなり然れども余の遺憾

は一時にして却て可憐の思なきに非らず何となれば近代敎育の到るところ妄誕その跡を歛

め敎育いよいよ廣く亘りいよいよ深く入るに隨ひ佛者捏造の方便はいよいよますます其勢

力を失ふものなればなり一社會及び一個人として全世界を通じ來る同情相感の波に誘はれ

て自から其光明を發するまでに高尚の域に躋るのを得るに至るものは天を信じ人を愛し望

を天道に繋ぐの致すところにして决して有形の地獄を恐るゝに由て然る可きものには非ざ

るなり

「暫くたりとも惡~を心にする勿れ人をして先づ善事を爲さんことを學ばしめよ天は善人

に與みするものなればなり、一人善を行へば萬人和して之に從ふ可し、人民に菩提の心を

發せしめんには最も惡しき感情に由らんよりは最も善き感情に訴ふるに若くはなし、罰を

恐れ危險を數へて宗門に入れんよりは隨喜親愛の心を以て勸化するときは則ち易々たらん

のみ何んぞ惡~を用ふることをせんや」とハロルド リツトンが其小説の中に記したる所

にして一句大に眞理と智識とを含めり果して眞理智識を含めるものならんには有道の耶蘇

敎を入るゝとも或は今の佛法を改良して地獄敎の主義を廢するとも何れにても善を以て人

民を敎ゆるの企望は全く空しからざるものにして日本人民は一種新鮮なる光明に照らされ

て眞實永久の進歩に導くべき妙力の下に置かるゝに至るや决して疑はる可らず余は决して

佛法の理に反して爭論を試るものに非ず余の説は日本の佛法を改良せんとするよりは寧ろ

日本に耶蘇敎を入るゝに若かずと聊か前途の見込を立てたるまでのことにして物の本色に

就て見れば耶蘇と云ひ佛陀と云ひ共に信用す可き敎にして彼の地獄を以て多數の愚民を嚇

すが如き恬然耻づるなきの方便を造るべきものには非らずと思へり故に若し耶蘇敎の中に

於ても地獄の敎に似たるものを見出せしならんには亦必ず口を極めて論駁すること今の佛

者に對するの筆法に異なる所なかる可し耶蘇佛陀その宗敎の名は曾て余の與り知る所に非

らず唯地獄の敎其ものを以て世道人心を誤ること少なからざるが故に論議するのみ耶、佛

二體の~靈に向て不公平なる判斷を下ださゞるは余の切に願ふ所なれば此文を草するも心

中また一片の他志を留むるなしとは特に斷言して自から欺かざるものなり