「病人の用に供するソツプの製方」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「病人の用に供するソツプの製方」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

ドクトル、セメンズ原文の飜譯

近代日本文明の進歩著しき中にも古來その國に行はれたる漢方の醫術を捨て其代りとして

西洋學術的の治方を採用したるが如きは最も著名なるものの一にして僅々十五年の其間に

國内數多の熟練なる内外科の醫師を出し以前ならば漢方醫家の手に其死を免れざりし病者

も爲めに回陽の幸bノ遇ひし者その數、幾百千人に下らず特に外科的の治術に於て其奏功

の著しきは世人の疑はざる所なるべし扨て病人の滋養に供する飮食物は醫藥と同樣にして

最も大切なることは今更申す迄もなき處なるが不幸にも日本にては醫風の漢方より洋方に

變ずる其際に病人の飮食に關する事は甚だ錯雜を極むるに至りたり盖し其錯雜の一大原因

とも云ふ可きは日本にて飮食の始末は通例家族の受持とする中にも一家中のお婆ァさんは

病人に進むる飮食の調理に精しきのみならず病人の看護と給仕の事にも巧みなるよりして

是等の事は取分けお婆ァさんの受持となりし事情に就て求む可き者の如し今のお婆ァさん

は其生れ何れも早くして看護婦たるべき今代の敎育を受けざるが故に(富有の人も病氣の

折には唯古風無知なる召使共の看病を受ることなれども看護婦の敎育行はるゝは此種の人

の爲めに甚だ宜しきことなり)勿論ソツプ其他洋方醫家の要する飮食物を製するの術を知

るものなし余は今茲に余が數年幾多の經驗を以て病人に進むる飮食物製法の實に容易なら

ざることを開明流の日本人に説明せんと欲するなり而して余は此説明をなすに特にこの十

年乃至十五年日本に滯在の其間余一人もしくは日本の醫師と協議の上、幾百千の病家を見

舞ひたる實歴に就て之を陳すべし勿論病家にては前以て余が外國醫師たることを知るが故

に余の方より斯く斯く望むならんと思ふ所の事は總て日本醫師の同意又は助言を以て豫か

じめ拔目なく用意し置けり斯くて病人の脈を診し舌を檢し且其受持の醫師より何々の藥劑

を與へ居れりとの事をも聞きたる上にて余は看病のお婆ァさんに「病人はドンナ物を上り

ますか」と問ふにお婆ァさんは直樣「ソツプ」なりと答ふ、依て其ソツプの一見を請ひ直

に持來れば取敢へず「このソツプはお前さんが拵へましたか」と問ふにお婆ァさん答へて

「イーヘ私の拵へたのではありません私はドーシテ拵へるのかソツプの製法を知りません

から近所の牛肉店から求めました」と云ふ余は先づそのソツプを檢するに上面に油の分子

浮びて然かも惡臭ある只の濁れる水汁と思はしきものなりければ余は重ねて「病人は此ソ

ツプを飮みましたか」と聞けばお婆ァさんは「ハイ一度に二三匙づつ飮みますが大層忌や

がります」と答ふ、依て余は其ソツプを味ひたるに病人の忌やがるも道理にことと思はるゝ

のみならず猶ほ其上に右のソップ中には爪垢ほどの滋養分さへないことを見出しぬ余は又

お婆ァさんに向て「お前さんはナゼお粥、卵酒その外お前さんの手で立派に拵へる事の出

來る日本の食物を病人にお上げなさらぬか」と云へば「私も左樣したく思ひますけれども

私のお醫者は水藥醫者で、お粥などは古風のもので養ひにならぬからソツプを拵へるが宜

しい、夫れが出來ぬなら牛肉店から買て來るが宜しいと申されましたけれども私は不得心

でソツプは手製の食物より費も多く匂ひは惡るし夫れに第一病人が好みませんと云ひまし

たら私の子供等はこれを聞きお婆ァさんは天保婆々ァだ未だ昔しの日本の野蠻風が脱けね

と嘲りました此分にては私はもはや人の母として子供等より敬まはるゝ一家の年寄役なら

で却て家の下女に等しく前途如何成行くやら分らずと嘆息して物語りたり

以上は余が毎度實驗したる所にして鄙見を以てすれば右お婆ァさんの説は過半正當なるも

のゝ如し前に述べたる如く舊文明より新文明に移るの間、事に多少の錯亂を生じ且つ種々

間違ひの行はるゝは致方もなきことにして兎に角に日本人が事々物々如何なる方角よりに

ても改進の路に進まんとするの大望を抱けるは實に驚くべく又嘉すべき(賞賛を價すべき)

ことなれども極度に至れば時として其模倣したる物の利用法をも知らずして只その物のみ

を眞似んとするの弊なきにあらず即ち前に記したる粗造濫製にして滋養の効力、遠くお粥

にも及ばざるソツプの如きは其一例にして數多の人民はこの間違の爲めに死を致したるも

のありと云ふも余は過言にあらざるべしと信ずるなり左あれその製方宜しきを得ばソツプ

は實に病人要用の食物にして長病又は大病の塲合に於ては殊に然るとすれども牛肉製のソ

ツプは只その製方の宜しきを得るを貴ぶのみならず之をして有効ならしめんとするには其

分量の十分なるを要するものと知るべし勿論良製のソツプを得て之を用ふるにも彼のお婆

ァさんの手に慣れ且つは病人の口にも適するお粥その他の食物と共共に之を用ひ决して是

等の品を忌むに及ばざることなり余は今左に病人の食用に供すべき牛肉茶(ビーフ、チー)

と稱するソツプの製法を記述すべし

脂肪のなき牛肉一封度(凡百二十匁)を細かに刻み之に冷水一ピント(凡三合)を加へ

放置すること三時間の後火に掛け沸騰せざる樣に徐々にこれを〓〔者+火・に〕ること又

三時間、この間水の蒸發するに隨ひこれを足して三時間の終りにも最初加へたると同量の

水を保たしむるを要す斯くて三時間の後に至り牛肉をば取除け汁には鹽を加して其味病人

の好に適する樣にす可しこの外、病用のソツプを製するの方數多あれども世間一般に通用

には前方の簡便にして容易なるに如くものなし而して猶ほ其上に滋養分を加へんとならば

鶏卵一個を破り之をソツプ中に混すべし若し其味稀薄となるときは更に鹽を加ふるも加な

り總じて苟めにも病人に氣力を與ふべきソツプの分量は一日牛肉一封度より製したるもの

ならざるべからず