「德育の説」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「德育の説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

德育の説

幼年子女の教育に智育德育ともに必要なりとして(體育の事は論せず)扨智育の事は之を學校の教師に任せその教導に依頼するを善とし敢て異議なき事なれども德育は之に異にして家庭の薫陶その功、最も多きに居るが故に父母たる者は家庭の教育を謹み子女の德性を涵養する其務は獨り之を學校の教師にのみ委ぬべからざるの責あるものと云ふべし支那の古代に胎教と稱し子の未だ生れずして胎内に在るの間母たる者は心術行儀を正くし未生の子の模範たるべしとの言あるも家庭教育のその初めを忽にせざるの意味を示したるものならん左れば子女の德性は家庭の薫陶に出づること固より疑ふ可きに非ざれば獨り學校の教育のみに依頼して家風修まらざる家の子を感化せんとするは其效極めて少なきものと知るべし抑も德育の家庭よりする所以の次第を述ぶれば元來德育なるものは外より來るものにあらず子女がその父母の傍に待し居常その威德を敬愛するの念より知らず識らず一種の感化を心に受けて以心傳心の模範を取り其德性は取も直さず不言の感化力に成るものなれば父母の德修らずして不品行なるに於ては其庭訓は如何に丁寧嚴密なればとて子の德性を涵養するは毫も實效を視る可らざるや明なり更に辨論を俟たざる次第なれとも然りと雖も天下の廣き不幸短命にして孤獨の子を遺す者もあらん又或は父母共に存しながら家内の風儀靜肅ならずして薫陶の力その子に及ぶ能はざるものもあらん又はその本心自ら好んで不德を犯さんとするにはあらざれども今の俗世界の悲しさは往々止むを得ざる交際の事情に迫られて醜行に陷り却て自家の子女に愧るが如き塲合もある可し此種の子女には家庭の教訓を授るに由なく又假令へ之を教えんとするも叶はざることなれば他人を煩はすの外に方便なしと雖も扨その實際に臨み之を公共の學校に托す可きやと云ふに鄙見に於ては然りと答るを得ず其次第は公共學校の教授法、行屆きたりと云ふも其成立の性質を尋れば本と天下の公財を集めて人の子を公けに教るの塲所にして教師たる者は錢を以て雇はれ弟子たる者は義務を以て就學し師弟互に公然たる義務義理合を以て教塲に相見るものなれば其間に於て藹然たる情誼、不言の感化力を含むものあるを見る可らざるや勿論にして到底頼むに足らざるは古今の事實に徴して明に知る可し月に數圓數十圓の金を目的にして學校に出入し首尾宜しければ長く教授の職に在る可し、不首尾なれば明日の罷職も計る可らず唯その日その月に義務を盡すのみの身にして無形微妙の德光を放ち衆學生の心を感化せんなど實に思ひも寄らぬ事にして之を冀望する者こそ迂遠なれ我輩は斷して其無益なるを明言する者なり次に私立學校は大に趣を殊にして其教頭と學生との間に自から情誼を通じ一校の德風知らず識らずの際に教頭の氣風に化して好成跡を得たるの事例なきにあらず徂徠の門人には徂徠に似たる人あり仁齋の塾より第二の仁齋を出すなと古今の人のよく知る所なれとも其私立學校も次第に規模を大にして幾十人の教師を雇ひ幾百人の生徒を教え〓然たる一大學校に形を成すものに至りては自然に公立の性質を帯び師弟の情誼に濃なるものを見る可らず其教頭に絶倫の人物を得れば格別なれども然らざるに於ては唯公立の無情殺風景を少しく和げたるものと云ふ可きのみ故に天下の孤獨若しくは孤獨に等しき不良の家の子を集めて之を德義の門に導き恰も一家庭の如くならしめんとするには家塾の體裁を以て少數を教るの外に好方便ある可らず今の日本には尚ほ舊藩士族の存して字を知り兼て品行の方正なる者甚だ少なからず利用するに足る可し又我輩の宿論の如く全國幾萬箇寺の住職の中にも教師に適當する者はある可し若しも不適當ならば次第に之を養成して今の寺を其まゝ家塾に利用するが如きは最も便法なる可しと信するものなり