「賽日に付府下衛生の爲めに一言す」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「賽日に付府下衛生の爲めに一言す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

賽日に付府下衛生の爲めに一言す

回顧すれば一昨年の今頃はコレラ流行の勢熾にして東阡南陌至る所に患者呻吟の聲を聞かざるなく府下百餘萬の生霊何れも安き思ひはなかりしに昨年は之に反して流行の沙汰もなく無事に三伏の暑を經過し來り烏兎匆々最早本年に至りて見れば今や盛暑に會したれども昨年同樣別に惡疫の發生ありとも聞かず人事の常として去る者は日々に疎く人皆な眼前に着目して過去を忘れ一昨年のコレラが猖獗の毒を逞ふしたることは夢の如くに消え去りて唯太平健全の世の中と思ひ歡樂の外に警を知らざるは今の都人の有樣なり又海外の諸國にても本年はコレラの沙汰なく香港以西に於て少しく其徴を現じたるより日本にても彼地より來る船舶に對し一々〓疫に着手したれども單に船舶を呼止めて病者の有無を査するに過ぎず其法至て簡なるは病毒の左迄に甚しからざるを示す者にて内外共に先づ以て無事の姿なれば此まゝ首尾能く秋冷にまで經過し得たらんには我輩は國の衛生の爲めに其佳運を祝して措かざる所なれども醫家の言を聞くに凡そ流行病の發生は全く人為の豫防其宜きを得ざるに在りと云へばコレラの如きも人々の注意豫防能く至る時は左迄憂ふるに足らざるに相反し若しも衛生の道に怠慢して飮食起居を等閑に附し不養生不健康を極めなば縱へ外より襲ひ來る病毒は防ぎ得るとも内の特發は拒むに由なく〓疫の法の如きも無益に屬することある可し殊にコレラは其始め外國より傳染し來りたる毒にもせよ今は日本に其病痕を留むること少からずして一朝其機に會すれば鬱積したる病毒も再發して猖獗を逞ふするなきを期せず故に我輩は政府が外國より來る船舶に對し〓疫法を施行するの擧を悦ぶと共に一方には各個人民に於ても一段豫防の法に注意し人事怠慢の害なからんことを切望するのものなり

夫れは偖置き明十六日は盂蘭盆の賽日にて一月の十六日に同じく一年二大休暇日の其一なれば府下の各商店工塲に在りては何れも丁稚小僧に終日の暇を與へ且つ小遣錢をも給して銘々勝手に保養を爲さしむるの習慣なり凡そ人の業務に於ては平生の勞に酬ひんが爲め時に快樂の遊なかる可からざるは勿論にして殊に商店工塲の如きは官省會社の如く一週一度若くは月に何回の休〓を取る可き餘裕あるに非ざれば一年二度の休日に三百六十餘日間の骨折を慰むるは誠に然る可きことなれども又他の方面より考ふれば此休暇に付自から一種の弊風なきに非ず試に之を擧げんに彼の丁稚小僧等が一月十六日以來始めて窮窟なる籠を脱すると共に主人より與へられし小遣錢を悉く自己の贅澤に供するは敢て差支へなきことなれども概して無智不經驗なる輩なれば或は飮食を過度にし或は不健康の塲所に遊ぶ等適々得たる快樂は健康を損ひ衛生を害し下痢腹痛より變じて他病の媒介たるなきを期す可らず固より各商店工塲の主人も其邊の事に注意し小僧輩に休暇を與ふるに當りては豫め不養生なからんことを警むる者もある可しと雖も既に從前よりの習慣餘力あることなれば主人の命令も容易に行はれ難く脱籠の小僧等は未明より夜に掛け其編歴遊觀する所は皆不養生不健康を買ふの地ならざるなし即ち賽日一日の快樂は以て府下百餘萬の衛生に關する少からずして事小なるに似たれども東京府下の全體に取りては決して等閑に附す可きものにあらざるなり

斯くの如く十六日の賽日は他の尋常の日にあらず府下全體の衛生にも關係するものなれば小僧丁稚等が銘々自身に注意す可きは勿論なれども迚も行屆く可きことにあらず左れば斷然この休暇を廢せんかと云ふに人をして勞の一方にのみに偏して逸の道を得せしめざるは其害も亦擧げて云ふ可らざるものあり依て我輩の所望に雇人の休暇を一年唯二日と定めずして毎月一度若しくは年に五六度などの法に改め恰も二度の快樂を十度にも十二度にも分つて小快樂を度々にせしむるの工風は如何と思へども夫れも積年の慣行にて容易に改め難しとのことならば止むを得ず當分は從前のまゝにするも今より一段の注意を厚くして不養生の事に付主人が懇々その理由を説き聞かすりのみならず家の父兄とも申談して共に力を盡すこと肝要なる可し或る商家の話に賽日の翌日店に歸來する小僧等は何か病に罹る者多くして十名の中過半は必ず病人なりと云ふ果して然ることなる可し若しも今のまゝに差置き賽日は丁稚小僧の爲めに病氣の製造日など云ふ評判高きに至らば或は官の筋より注意して當日休暇の時間は云々遊觀の取締、飮食の品物は斯の如くす可しなど懇々たる説諭若しくは嚴重なる命令なきにも限らず隨分今の風潮には必無を期す可らざる事柄なれども左りとは市民の爲めに謀りて氣の毒なる次第ならずや人の快樂は全く其人の私事なるに其邊にまで他の説諭命令を容るゝとは實に不外聞不面目の極なれば何卒自家の子弟自家の雇人は其父兄又は主人にて世話の屆くやう我輩の祈る所なり