「國會は討論會に非ず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國會は討論會に非ず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國會は討論會に非ず

廿三年の國會は專制政體を變じて立憲政體となすの第一着なれば我國振古未曾有の革命に相違なけれども全國の代議士が立法の任に當りたればとて俄に良案妙策の涌出するにも非ざれば國の利害に於て著るしき成績を見るべしとも思はれず殊に草創の際官民ともに不慣にして百事不如意勝ちなるべければ故さらに新案を立てて改正に鋭意ならんよりは寧ろ少しく扣目にても實着にして躓かざらんことこそ願はしけれとて毎度我輩の云ふ所なれども世間多くは之を顧みず國會に望を屬すること過大にして租税を輕減し財政を整理し自由を發揮して國權を伸暢するなど都て表題の美なるものは皆國會開設の曉を待て緒に就く可しと云はぬばかりに囃立るが故に政事に不案内なる農工商人等の中には無心に之を聞いて銘銘勝手の所望を並べ一も二も國會に依頼する其趣を喩ふれば田舍の小娘が阿爺の江戸に上ると聞き衣服裝飾何くれとなく欲する儘を注文して曾て金額の多寡を問はず又阿爺の財嚢の寒温を顧みざるものに彷彿たり但し此等は極端の種類なれども兎も角も國會議塲を以て國病の治療所となし期するに非常の好成績を以てするは一般の有樣にして又青雲功名の症に煩悶する人人に在ては恰も龍の雲を得るが如き心地して此際天下の人心を繋ぎ政權を掌握せんことを企つるもあるべく何れも廿三年三年と稱して唯待詫ぶるの一方なれば國會は百種の希望の燒點なりと云ふて不可なきが如し斯の如く國會に對する國民の想像は畫き得て美に過ぎ却て其實を失ふものの如くなりと雖も此氣勢は容易に退却することなく百病の療治は一切國會議員の盡力に在りと心得るの風なるが故に議員に撰擧せらるる者は勢ひ負望の恩に應へざる可らざるの義理合となりて辨論に長ずるものも拙なるものも是れは一世の曠業なり撰まれて國會議員となりながら辨論を試みざれば一分相立たたずとして餘計の言と知りつつも敢て議論を挾み甲論乙駁些細の議案も容易に通過するを得ずして其賑かなること如何計りなるべきや恰も一種討論會塲の奇觀なきを期す可らず或は云ふ今の府縣會の實况を見れば左まで囂囂たるにも非ず、可なり秩序も整齊するが如くなれば國會とても凡そ同樣のものなるべしとの説あれども府縣會は政府の獨發に發起したるものにして國會は人民の方より之を請願したるものなり其由來を尋れば尚早しの議論を打破りて宿願を達したるの事實にあらざれば想像を懷くものなるが故に世人が府縣會に望む所は尋常なるも國會に望む所は過大ならざるを得ず即ち人氣の赴く所にして其賑かなるも亦謂れなきに非ず我輩の竊に憂ふる所のものなり

右は固より想像の談に過ぎされども本來國會議員の本分は辨論を鬪はすに非ずして實益を計較す可き筈のものにこそあれば無川の議論を逞ふして議事を妨るが如きは自から之を愼み各議員が自重自尊の旨を忘れずして以て國會の重きを成さんこと我輩の願ふ所なり事柄は異なれども近頃諸方より委員を派出して某實業に關する會議を東京に開きたるに各地方にては何は扨置き辨論は大切なりとて實業よりも寧ろ辨論を主として委員を撰出せるもの多く委員も亦その旨を氣取り實業を離れて辨論を事としたるより會議は毎日喋喋するのみにて豫て期したる實効とては更になく恰も空論を以て結了せりといふ蓋し我國にては古來辨論學とてもなく又公衆の面前に出でて論議すること甚だ稀なりしを以て今日の如く會議の席上に辨を揮ふ抔は多數の人の不得意とする所なり、不得意なるが故に之に苦しみ、苦しむが故に其必要を感じ、遂に會議に臨席するものは雄辨を競ふべき筈のものなりと一筋に思込みたる意味もある可し事情は無理ならねども事實に於ては困却の次第なりと謂はざるを得ず斯く云へばとて我輩は敢て辨論を輕視する者に非ず唯前陳の如く國會は議論を少なくして實際に滯りなきを貴ぶものなれば其趣意に誤解なからんことを冀望するのみ故に他日議員に當撰する者は宜しく此邊に注目し議事の際若し他の雄辨なる議員にして自説と同樣の事を陳ぶるものあらば之を其當人に一任し自身は唯决議の數に加入するのみにして一切口を緘するの風を成すは國會の美事なる可し此種の議員を稱して緘默議員(Silent member)と云ふ緘默議員默するも榮譽なきに非ず辨者少なくして默者の多きは國會の實益を擧るの方便にして議員が國民に盡すの本分も正に此實益にこそ在れば我輩は辨者と默者と孰れをも輕重する者に非ざるなり