「宗教不問」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「宗教不問」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

宗教不問

宗教家の説に曰く經世者が常に方便の考を以て宗教を論じ人事世道に利あるが故に宗教を廢すべからずと爲し單に愚夫愚婦を導くの手段として之を利する者少からずと雖とも是れは實に宗教の爲めに迷惑至極の談なり本來宗教の大義は獨尊自立にして其教の世に行はるると行はれざるとは元より人に存すれども教義の大本は萬古不滅、天地と與に長久にして喩へば猶眞理の如し人の未た發見せざる以前に在りては眞理世に明かならずと雖も尚ほ敢て其生存を害せず宗教も亦之に均しく縱へ一人の信徒なきも其大本は决して湮滅せずして信徒は只其宗教の大義を守り兼て之を世に弘むるを旨とするのみ佛門に在ては之を濟度と唱へ耶蘇教に於ては傳道と稱す孰れも其手段なれども彼の經世者の説の如く宗教を一種の方便なりとすれば之と同時に宗教の大本は破滅せざるを得ず何となれば經世者の議論は宗教の獨尊自立を認めずして唯これを一種の方便と爲すが故に今日の社會を利する宗教にても他日或は弊害ありとするときは之を擯斥すること容易なる可ければなり元來方便とは事物の眞を問はずして時の宜しきに從ふの義なれば經世者の議論は縱へ宗教を有益なりとするも既に其眞を認めざる限りは尊信の念は初めより斷絶して恰も之を弄ぶに異ならず宗教を助るに非ずして却て害するものなり云云と

元來我輩は宗教の事に淡泊にして又其蘊奧を究めず佛教なり耶蘇教なり外より之を窺ふて彼此の間に差したる異同をも見ざるが故に宗教の利害を論ずるにも其方便の上より立言するの外なきは或は宗教家の喜ばざる所ならんと雖も既に經世の考を以て世態人事を考究するに當りては宗教も亦人事中の一として視ざるを得ず即ち我輩は宗教の理を問はずして其効を論ずる者なり抑も日本の宗教は古來佛教のみにして千有餘年來人事世道に裨益したるは尋常ならず社會の道徳教育より人民産業の事に至るまでも佛門僧侶の力を假り以て我文明を致したるの事實は着着史上に見る可し左れば佛教の勢力は一時殆ど日本の政治をも支配して全權到らざる所なかりしが武家の世に及んで兵馬干戈の事起り世人復た宗教を説くに遑あらず下て徳川の世に至り兵亂は跡を收めて太平に歸したれども同時に儒教の發生に逢ひ全國上流の士人は概して儒者の教に靡き佛教は恰も從前の勢力を奪はれて單に下等社會を支配するに過ぎず往年は國の政治をも左右せしものが今は却て政治に左右せらるるの勢に變遷して二百數十年の後王政維新の初に至れば儒門の子孫が政權を執り之に加ふるに一種新色の神道なるものを以てして地上の波瀾穩ならず一時は廢佛の聲をさへ聞きし程の次第にして其運命甚だ危かりしかども二十年の今日に至り世情の鎭靜と共に佛門も亦稍や小康を得たるものの如し

我内國に在て宗教の事情は斯の如くなる其最中に外より耶蘇教の傳來するありて漸く其教を布き近來は信徒の數も増加して漸く將に佛教の外に日本宗教の一新面目を開かんとする勢あるが如し是れ亦我輩の憂る所に非ざるのみか進歩の急に迫りたる我國今日の爲めを謀れば彼の外教と共に外國の文明を輸入して先づ我人智の開發を助け又彼我の人情を通ずるの方便と爲し其効力の大なる可きを信じて之を經世上に利せんと欲する者なり故に日本人の之を信ずると信ぜざるとは各人の隨意にして敢て傍より干渉すべき理由なきのみならず經世者の眼中には總て宗教は佛教耶蘇教に論なく之を不問に附して全く各個人信仰の自由に任せ政府は勿論隣人と雖ども他より之に喙を容るるなからんこと我輩の希望する所なり然るに近來聞く所に據れば耶蘇教徒中に外教公許の發令を政府に要求せんことを計畫するものありて其趣意は徳川の世に禁制なりし耶蘇教も王政維新と與に不問の默許を得たれども尚ほ未だ公然の默許あらざれば今日政府に其發令を求め以て徳川の禁令は既に廢したるの事實を天下公衆に示さんとするに在りと云ふ盖し從來の情態にても耶蘇教は已に默許の姿にして信ずるも信せざるも只人の隨意たりしなれば默許を變して公許と爲すは五十歩百歩の相違にして不都合なきが如くなれども我輩の看る所を以てするに耶蘇教の事は兎も角も彼の佛教とても曾て政府より一定の布令を發して公然これを許可したるの談を聞かず只千餘年來の因習にて佛教僧侶が人民に對する信用と勢力とを其儘に默許したるに過きざれば獨り耶蘇教に對して今日故さらに之を公認するは如何ならんかと思はるるなり凡そ政府の看る所に於ては佛教も耶蘇教も同等同位なりとして一切これを不問に附すべきことなれば耶蘇教徒より外教公許の請願あるに當りて政府の之を公許するは小事なるに似たれども宗教不問の大義を嚴格にして厘毛犯す所なからしめんとするが爲めには我輩は聊か踟■(あしへん+「厨」)の念なき能はず乞ふ其事由を次に述べん               (以下次號)