「實業社會」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「實業社會」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

實業社會

内治の整頓も國權の伸張も富の源なければ云ふべくして行はる可らず因果の區別分明にし

て疑もなき道理なれども世間往々容易に之を看過して議政の方法は云々、兵備の趣向は箇

樣箇樣とて妙案奇説交々顯はれ其妙奇を捏造して樂となすもあれば之を以て衣食の便に供

するもあり天下の風潮は滔々として無形の議論に走り恰も議論熱の流行を來たせしは我國

近年來の事實にして識者の常に惜む所なりしが過般は又憲法の發布ありて國會の運命も漸

く定まりしことなれば今後は政黨の組織に付政治家の東西に奔走して頻に遊説を試むるに

連れ政事に意ある者の意なき者も相共に動搖して何々の會同に周旋する等其繁忙なること

日も亦足らざるの思あるべし又議員の撰擧に當撰を競爭し甲乙ともに種々の計略を運らす

其間には撰擧の資格ある人々は共に共に競爭の中に捲込まれて思はある煩累を招き時とし

ては識らず識らず政治家の氣風を氣取りて家計に災難を來たすこともあらん當人の爲めに

氣の毒なるのみか國の全體に取りても好ましからざる次第にして現に今日までの實例に於

ても政熱の狂炎は端なく實業世界を糜爛して傍より見るに堪へざるの趣を呈したること

屡々なれば此後の景况こそ誠に思遣らるゝ計りにして政海の景氣には光彩を添ふべしと雖

も一たび思を轉じて富國の實を求むるときは我輩は前途の爲め甚だ頼母しからざるを覺ゆ

るものなり若しも此等の滔々たる政談が蠶絲業なり漁鑛業なり凡そ殖産興業の講談に一變

するを得ることならんには如何に目出度ことどもならんとて常に想像を描く所なれども想

像は則ち空にして先進も後進も一に無形の議論に走るを以て恰も處世の名譽と心得るが如

きは亦是非もなき事と云ふべし

右は我輩の申す迄もなく新聞紙を閲讀するものゝ皆ともに知る所なり思ふに天下の廣き此

狂瀾を挽回せんとする其人なきに非ざるべしと雖も今日の處にて倩々世上を見渡せば各地

方に設けある各實業の組合こそ正に此任に當るべき者ならんと竊に信ずる所なり蓋し其組

合の性質組織等に就ては我輩悉く感服するを得ず自から別に説ありと雖も是は局部の論に

して廣く實業會に望む所以にあらず兎にも角にも實業上の會合とあるからには之を組織す

る者は皆即身實業家にして自家の利益を圖ると共に全國の殷富を生出する者ならん即ち我

國實業の運命を維持する根本にして將來ますます其隆盛を効すの責に任する者なり組合組

織の目的も亦これに外なかるべし左ればこそ各地方相通して東京に中央部を設るあり數州

相合して聯合會議を開くあり種々の會議の頻々として開設するあるは專ら其業の伸張を謀

らんが爲め實際の利害につき打合せをなすものなる可ければ我輩は竊に其結果の美ならん

ことを期望せしに終に今日に至るまで著るしき効蹟を見ざりしこそ遺憾なれ是れには政府

の干渉その他種々の事情もあらんかなれども我輩の聞く所を以てすれば一は世間一般議論

熱の盛なるに伴ひ其餘勢を實業社會に及ぼし實業の會議をして往々空論に奔逸せしむるも

のあるが爲めなりと云ふ蓋し從來日本の欠點として辨論に長する者は實際に疎く實際に深

き者は辨論に拙なるの傾あるより今何々業の大會議を開かんとして其地方より代議士を撰

出するに當りては宜しく實際に深き者を撰定すべき筈なれども固是れ議論の塲所なれば辨

論こそ大事なれとて甚だ辨論に重きを置き實際の事をば第二となすの有樣あると共に又其

撰まれたる代議士も本來實地に明かなるにも非ず唯雄辨を振ふて撰擧者に負望の恩に答へ

んとするが故に自から議席の賑々しからんことに心を用ひて遂に無益の談を以て始終する

者多しといふ果して此の如くならば誠に歎息に餘りありと云ふべし我輩は曾て世人が國會

を以て恰も萬能の府と認め内治の整頓も國權の擴張も租税の輕減も産業の振起も皆これに

由りて得らるべきものと看做し其國會の開設を希望すること餘りに切なるを見て却て之を

悦ばす議員たる者は宜しく沈默にして漫に議論に走る可らず國會は討論會にあらずとて忠

告を試みたることもありしが今や國會は扨置き實業の文字を冠する其會議にして猶且つ空

論に流るゝの趣あるとは實に驚入りたる次第にして唯議論熱の流行傳染を歎息するのみ前

にも陳べたる如く我國の人心は將來も亦ますます政熱に侵されて空論の勢力日に増し熾な

らんとするに際し能く實業の運命を支へて國富の源を開くものは唯實業家の一類のみなれ

ば其會議に當りては前途の利害を計較し實際の打合はせもあるべき筈なるに些々たる規則

の字義を論する抔口舌の爭に專らにして實利の本分を忘却するものゝ如きは我輩その何の

謂たるを知らざるなり况んや政熱の沸騰に抵抗するを思はずして却て捲込む所となり共に

共に嚢中に徘徊するに至ては抑も亦實業家の恥と云ふべし本年も亦漸く實業會議を開設す

るに至れり其結果果して如何なるべきや(未完)