「政治上に徳義の聲を高からしむ可し」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「政治上に徳義の聲を高からしむ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政治上に徳義の聲を高からしむ可し

今の日本の政治社會を以て之を西洋諸國の有樣と對照比較するに發達進歩の度固より同日

の談にあらざるが故に其同じからざるもの一にして足らずと雖も就中政治上の徳義に關す

る一段に至ては著るしく東西の相違を見るの感なきにあらず古來我日本の士人は忠孝仁義

の教に養はれて慣習、風を成し人々個々に就て其徳義の高尚なるは我も人も許す所にして

疑もなき事實なれども然れども之を今日の政治社會に適用するに及んでは忽ち反對の觀を

呈して徳義の聲、案外に高からざるは如何なる次第なるや我輩の一見して先づ驚く所なり

抑も人民代議の政體が西洋諸國に行はれし以來時に汚隆盛衰の變なきにあらずと雖も次第

に改良進歩を致し未だ完全の域に達する能はざるも兎に角に今の世界に無二の政體と稱せ

らるゝに至りたる其の理由は種々樣々なることならんなれども畢竟その人民に徳義の心高

きが故なりと云はざるを得ず如何となれば代議政治の仕組たる其精神成立は兎も角も實際

の運用は君相の意志にもあらず制度の仕組にもあらずして人民の智徳に由りて始めて其妙

を現はすものたるは實際に於て疑ふ可きにあらざればなり故に西洋代議政國の人民は人々

個々に就て之を見るときは或は一身の行ひ修まらずして人に恥づる所、多きものなきにあ

らざれども其政治上に現はるゝ所は何れも高尚嚴格にして日本人の眼より見るときは少し

く異相の觀なきにあらず盖し此の如くならざれば以て政體の腐敗を防ぎて其面目を維持す

ること能はざるなり西洋政治の歴史を讀み又これを實際に徴するに有名卓越の政治家にし

て私徳の修らざる爲めに政治世界に擯斥せられたるもの古來その例に乏しからずその最も

近きものは彼のチヤーレス ヂルクの冤罪事件にても知る可し氏の嫌疑は單に男女間に歸

する事なれども其他金錢上の沙汰の爲めに名士の煩累をなしたるの談は敢て珍らしからず

米國現任國務卿ブレーン氏は同國屈指の政治家にして其技倆材略は世間の許す所なれども

先年大統領撰擧の爭ひに弱敵と侮りたるクレヴランド氏の爲めに打負けたるは氏の身上に

關する風聞、世間に喧しく之が爲めに人望を損したること多きが故にして又昨年の同撰擧

にもレパブリカン黨が同氏を候補者となさずして却てハリソン氏の如きものを撰びたるも

偏に此邊の意味に原因したるものなりと云ふ世間の風聞は以て其人物を輕重するに足らず

と雖も其徳行に關するものは特に之を輕視せずして爲めに一黨の運命をも左右するに至る

を見れば西洋諸國の政治社會には徳義の聲、殊に高くして苟しくも〓〓の分子を容れざる

を知る可し彼の國々に於て政議政體の妙機を誤らざるは畢竟これが爲めならんのみ然るに

我國にては人々個々の徳義は頗る高尚なるにも拘らず政治上には其聲甚だ高からずして古

來奸臣と云ひ汚吏と云ひ政治社會に人を擯斥したるの例は少なからざれども其實を云へば

是等は唯政治上の主義を異にし又その權勢を嫉む人々が反對の當路者を目し之に奸汚の名

を與へたるものにて其一身の私に就て詮索すれば奸臣决して奸ならず汚吏决して汚ならず

品行徳義の一點は清浄潔白、却て攻撃者に勝ること萬々なるものもある可し斯の如く一方

に於ては其攻撃の激烈なるにも似ず一方に於ては人の私行に就て云々することは極めて稀

れなりしが故に其氣風は今に改むる能はずして代議制度の實行も既に目前に迫りたる今日

に至り政治上徳義の聲は猶ほ甚だ低きが如し日本人民の短所として我輩の竊に患ふる所な

り例へば從來政府の大臣その他顯官の進退などあれば世間の言は兎角喧しく其人の主義は

如何、技倆は云々とて評論するもの少なからざれども扨その私家の内行に至りては捨てゝ

問はざるものゝ如し畢竟日本人に徳義の思想なきにあらず唯政治上に其聲を高うするの風

を成さゞるのみなれば今日よりこの風を養ふの工風肝要なる可し斯く云へばとて我輩は故

らに人の私行を摘發し之を世間に喋々するを以て得意となすものにあらず唯今後我國に行

はるべき代議の制度をして其妙用を全うせしめ腐敗に陥ることを豫防せんが爲めに特に此

風の肝要なるを説くのみ