「法律の二要目」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「法律の二要目」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

法律の二要目

我が政府は内に法制[はふせい]を整[ととの]え外に文明[ぶんめい]を示さんが爲め先年來法律の編纂[へんさん]に從事し日に幾條[いくでう]は是非[ぜひ]とも議了[ぎれう]せねばならぬとまで約束[やくそく]を定めて晝夜[ちうや]兼行[かんかう]非常の勉強[べんきやう]をなし遂[つひ]に此程に至りて殆んど大成を告[つ]げ來る七月頃を期[き]して民法訴訟法を發[はつ]して次いで會計法商法も遠[とほ]からず發布[はつぷ]せらるべしといふ扨この法律[はふりつ]編纂[へんさん]を取急[とりいそ]ぐことに付ては初より世間の評判[ひやうばん]に掛り國俗民情に適合[てきがふ]する樣法律を組立[くみた]てんとするは難中の至難事[しなんじ]なる可しと言囃[いひはや]せしがいよいよ發布間近[まぢか]に差迫[さしせま]りて近頃法學士會は私に意見書[いけんしよ]を製[せい]して延引[えんいん]の儀[ぎ]を説[と]き其他朝野の士人中に新法の速成[そくせい]急發[きふはつ]を不利とする者あるよしなれども事の成行[なりゆき]如何[いか]なる可きや我輩の知らざる所なり又我輩は新法律の箇條[かでう]を知らず其佛蘭西主義と獨逸主義と何れの邊を適合[てきがふ]したるものなるや都[すべ]て之を知る由になければ暫[しばら]く愼[つゝし]んで議[ぎ]せざれど抑も法律の貴[たつと]ぶ所は第一法律の定むる通りに行はるゝこと是なり例[たと]へば從來既存[きそん]の法律とても條理[でうり]の正面に從へば固[もと]より事情[じじやう]の爲めに制[せい]せられて筆法[ひつぼふ]を枉[ま]げぐべき筈[はづ]に非ざれども積年[せきねん]因習[いんしふ]の効[いた]す事なるが事の官民雙方に關[くわん]する爭[あらそひ]となれば通信を許さゞる所に通信の道[みち]を開[ひら]き行政部の内意往々その効力[かうりよく]を奏[そう]することもなきに非ずと云ふ又或は官尊民卑[くわんそんみんぴ]の弊風[へいふう]は法律取扱[とりあつかひ]の邊[へん]にも行はれ例[たと]へば法の正面より見れば同一樣の場合[ばあひ]にても平民なれば颯々[さつさつ]と法廷[はふてい]に呼出し颯々と尋問[じんもん]して至極無造作[むざうさ]なれども政府の貴顯[きけん]とあれば中々鄭重[ていちやう]にして容易[ようい]に召喚[せうくわん]等のこともなく先づ以て穩便[おんびん]にするなどの意味[いみ]深[ふか]しと云ふ即ち一視平等の旨[むね]に對[たひ]して遺憾[ゐかん]の點[てん]なり若しも今後の實際に斯[かゝ]る遺憾[ゐかん]の事共多きに於ては如何[いか]なる金科玉條[きんくわぎよくでう]ありと雖も金玉の實なきものと云ふ可きのみ畢竟[ひつきやう]此等は司法官の徳操[とくさう]に由ることなれば法律の文明に進むと共に之れが實行に付ても深[ふか]く心を用ひ華[くわ]ありて實[じつ]なきの譏[そしり]を避[さ]けざる可らず第二に法律の假定[かてい]として人民は何れも法律を心得[こゝろえ]る者と認むることなれば成るべく一般に法意の所在[しょざい]を普知[ふち]せしめざる可らず即ち人民は悉く學者に非ざれば法律の文句の平易[へいい]にして何人にも解[かい]し易[やす]き樣鍛錬[たんれん]の上にも鍛錬を加ふるこそ肝要[かんよう]なるべし聞く所によれば今度發布せらるべき法律は其精神[せいしん]を西洋に取[と]りたるものなりと云ふ精神を取捨[しゆしや]するは敢て不可なかるべしと雖も之と共に併せて文字をも翻譯[ほんやく]し來るに於ては澁難[しふなん]佶屈[きつくつ]尋常讀書の人と雖も往々解[かい]して解[かい]す可らざること多きを免れず蓋し是れは翻譯の拙[せつ]なるに非ず東西の語意[ごい]相殊[あいこと]なるより譯[やく]して譯す可らざるに由ることにして偲[をも]へば從前締結[ていけつ]したる諸外國との條約文[でうやくぶん]を見よ文句澁難[しふなん]意義曖昧[あいまい]にして間[ま]々實際に不都合を生ずることさへありしものは元是れ蘭文を翻譯したるが爲めにして必竟此等の條約文は意義[いぎ]の解釋[かいしゃく]を爭ふことも稀[まれ]に又尋常の人々は深く要用[ようよう]を感[かん]ぜざるが故に先づ以て穩[おだやか]に濟むことなれども民法の如き人民一般の私有に直接[ちよくせつ]の關係[くわんけい]あるものに至ては決して斯[かゝ]る餘裕[よゆう]を許[ゆる]さず今假に〓に〓〓〓ありて火[ひ]を戒[いま]しむるの場合ありとせんに「有〓〓〓〓火〓之」と榜示[ばうじ]するか又或は「煙硝[えんせう]あり火[ひ]の用〓〓〓火じと〓名[な]まで附けて之れを示すか、目前[もくぜん]に死傷[ししょう]〓〓〓〓〓〓〓は如何に文字を弄[もてあそ]ぶを好[この]む者と雖も後〓〓〓〓とするは勿論[もちろん]なる可し煙硝發火の災難[さいなん]と稀有得失[とくしつ]の利害[りがい]と何ぞ異[こと]なる所あらんや法律を解[かい]すると解せざるとは私有の得失[とっくしつ]に關[くわん]す、其文章の解し難きは煙硝の火の用心を漢文に記[しる]すに異[こと]ならず實に恐[おそ]る可きことなれば今度發布す可き法典も其主義條目の完不完よりは寧[むし]ろ此邊[このへん]に注意するこそ人事に適切[てきせつ]なる用心といふべし若しも然らずして徒[いたづら]に西洋の精粹[せいずゐ]を掬[きく]せんと欲し學者社會に賞美[しゃうび]せらるゝ計りにては例の慧眼[けいがん]聰耳[そうじ]にして陰[いん]に入り微[び]を探[さぐ]るの鋭敏者流[えいびんしやりう]は獨[ひと]り法意の所在[しよざい]を心得[こころえ]、淳朴[じゆんぼく]なる良民は空しく彼等の餌[えさ]となりて途方[とほう]に迷[まよ]ふとあるべし一方には良民の多數を占[し]むるもの之を良國と稱[しよう]して政府に立つ者は務[つと]めて人民を淳良[じゆんりやう]に導[みちび]くを以て第一要義[ようぎ]となすにも拘[かゝ]はらず又一方には法律を六箇しくして鋭敏[えいびん]者の一流に便利を與[あた]へんと欲するは聊[いささ]か矛盾[むじゆん]の嫌[きらひ]を免れず我輩は文明の旨意[し]は自然の状態[じやうたい]を改進[かいしん]するに在りとして敢て一言を寄[よ]するものなり