「土地収用法」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「土地収用法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

土地収用法

政府は法律第十九號を以て土地収用法を公布し公共の利益の爲めに必要なりと認定したる工事には此法律の定むる所に依り損失を補償して土地を収用又は使用する事を得せしめ去る明治八年太政官第百三十三號にて達したる公用土地買上規則は新法施行の當日より廢止する事となしたり新舊ともに均しく土地の収用に關する法律規則なれども舊則は僅々十二條に過ぎざるに新法は總て四十一條より成立し其條項に於て既に斯く詳略の差ある其上に精神と云ひ手續と云ひ之を舊則に較ぶれば大に異なる所ありて要するに今回の新法は時勢の變遷に應じ事の取扱ひを精密にして偏に人權を疎かにせざるの趣意に出でたるものゝ如し我輩は今左に新舊兩法の概略に就て比較對論する所あらんとす

第一 舊則第一則に「公用土地買上とは國郡村市の保護便益に供するため院省使廰府縣に於て人民所有の土地を買上るを云ふ、但國郡村市の保護便益に供する爲め人民にて鐵道電線上水等の大土工を起す時は其事業により特別官許の上此規則に準ずるを得べし」とありて均しく公益の爲めに土地を使用するに規則上自ら官民の區別をなしたる處新法にては「左の種類の工事に要する土地は内閣に於て公共の利益にして必要なることを認定したる後此法律を適用することを得」とありて其種類は第一より第六までに分ち國防其他兵事に要する土地を始とし官立公立乃至私立を論せず苟しくも公共の利益の事に供する土地は總て之を網羅し別に官民云々の分隔てをなさゞるは全く體裁上の事とは云へ政府より發したる法文の面にこの變化を見るに至りたるは近來官尊民卑の風漸く薄らぎたるの徴として我輩の滿足する所なり

第二 舊則には「公用買上は必ず其地を要せさるを得さるにあらされば之を行はさるものとす故に人民之を拒むを得ず」との嚴則ありて殆んど命令的に屬するが如くなれども新法に於ては其注意最も周密にして法の精神は全くこの點に集ると云ふも可なるが如し即ち前述の工事の爲め土地を収用又は使用せんとするときは起業者は工事計畫書并に圖面を製し地方長官に差出し長官は之を審査して内務大臣に具申し大臣は又これを閣議に提出し(政府の起業に係るときは主務大臣内務大臣と協議の上之を閣議に提出す)内閣に於て之を認定したる上にて起業者は工事準備の爲め始めて其土地に入り測量若くは檢査をなす事を得るものにして之が爲めに生じたる損失は起業者に於て補償す可きは勿論、既に工事の仕樣及び収用又は使用す可き土地の區域畫定したるときは起業者は其仕樣書并に圖面及び損失補償金額見積書を所有者及び關係人に示し協議を遂げ其額もし調はざるときは起業者は意見書と共に其書類を地方長官に差出し府縣會常置委員を以て組織したる土地収用審査委員會の裁決を請ふ可し而して其書類は十四日間公衆の縦覧に供し土地の所有者及び關係人は其期日内に意見書を差出し扨いよいよ裁決を受けたる上にて其工事仕樣に關する裁決に服せざる者は七日以内に内務大臣に訴願し、補償金額に關する裁決に服せざるものは三箇月以内に裁判所に出訴する事を得るものにして之を舊則の公用買上の必要と認めたる上は人民は之を拒むを得ずと云ふ命令法に比すれば其手續の周到綿密なる霄壌、啻ならずして而も其精神の所在を尋れば一々人權を重んずるの意ならざるはなし尤も舊則とても施行の實際上には夫々の手續もありて強ち命令のみにはあらざれども事の最後に至れば人民は之を拒むを得ずの一句確乎として動かす可らず千萬無限の事情も遂に無用に歸するが如き事なきにあらざりしが今度の新法に於ては起業者より工事の計畫を提出し又は土地を測量檢査して所有者及び關係人と協議を遂ぐるの順序手續も明白に定めある其上に協議の調はざるときは起業者は審査會の裁判を請ひ裁決に服せざるときは雙方ともに内務大臣に訴願し又は裁判所に出訴する事を得るとありて事の便宜は申す迄もなく人民の私有を處分するに特に鄭重の注意を加へたるものにして即ち新法の出色と云ふ可し

第三 買上の対價に關しては舊則には「公用のため買上る地價は券面に記したる代價たるへし然れとも地價相違を生ぜし時は所有者と該廳との商議を以て代價を增減することあるべし」とあるを新法にては「収用又は使用すへき土地其他の補償金額は所有者及關係人をして相當の價値を得せしむるを目的として之を定むへし」と云へり其他其土地に關する建物木石作物より道路溝渠橋梁墻柵及び井等の塲合に於ける収用補償の事等これを舊則と比較するに精粗詳略、同日の談にあらずして而も其箇條は一として人權保護の一點に傾かざるはなし右は概略の比較にして一々これを對照して論究するときは新舊相異なるの點その他にも甚だ少なからざる可しと雖も之を要するに今度の新法は時勢の進歩に應じ人民の所有權を尊重するの精神より出でたる改正として我輩の異辞なき所なるが唯事の序に一言せざる可らざるは此新法と本年一月に公布せられたる東京市區改正土地建物處分規則との關係これなり勿論彼規則は東京の市區改正の爲めに特に制定したるものにて一般の土地法とは自ら殊別なる處もあらんなれども人民所有權の事はその係る所甚だ少なからざれば苟めにも彼是厚薄の懸念あらしむ可らず抑も彼規則と此新法との關係に就て如何なる處分ある可きやは我輩が世人と共に窃かに疑を存する所なり