「流行病の豫防法」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「流行病の豫防法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

流行病の豫防法

府下築地邊には此程より腸窒扶斯流行して死亡者も少なからず目下猶ほ蔓延の勢ありと云ふ右に付き京橋區内に住居する諸醫師の組織したる醫會に於ては議を爲して曰く從來コレラ等流行病の折には其豫防消毒なども一切官の差圖に任せ病人の診斷治療さへも區醫が役目上の勤務にして規則の上に於ては差支なきことなれども市町村自治の制も既に實行され人民に重きを歸したる今日に至りては獨り官の手にのみに依頼す可きにあらず殊に區内には醫會又は衛生會など既に私立のものありて平日より公共衛生の事に就ては彼れ是れ研究も少なからずして各自自から所見もあることなれば斯る塲合こそ其實を現はす所なれとて醫會より發議して衛生會の同意を得、既に病に罹りたるものゝ届出方又は事情に依て病院に送る等の事は公の手續に依ること勿論なれども其予防消毒法など公共の衛生に關するものは官の手を煩はさずして一切衛生會に於て引受くる事に致したしと京極區私立衛生會の名を以て東京府廳に申出たる處府廳にても大賛成の趣にて補助金をも附與する事となり又區内其他有志者の寄附金も少なからざるより昨今いよいよ實施に着手したりと云ふ抑も傳染病豫防の事に就ては從來政府の注意一方ならずしてコレラ病流行の折などは其向の人々は非常の盡力にて之が爲め公私の費用は隨分少なからずとのことなれども人民は其割合に之を喜はざるのみならず却て嫌惡の情を挟むものさへなきにあらず殊に地方などに至りては其情一層甚しくして之が爲めに一揆騒動の沙汰こそ近來跡を絶ちたるが如くなれども内實の苦情は依然舊の如くにして當局者の苦心は病毒の蔓延よりも寧ろこの苦情の始末に在りと云ふ畢竟事の新奇にして今の民情に慣れざるが爲めならんなれども又一方より察すれば病は人事の大變にして此變に逢ひ家内中は申す迄もなく親戚朋友ともに心を痛ましめて不幸を悲しむは人情の常なるに然るに今の傳染病の規則實行の實際には時として或はこの人情に反したる取扱振もなきに非ずと云ふ或は傳染病の如き危険の塲合に於ては區々たる人情に會釋して之が爲め恐ふ可き病毒を社會に流すこともありて由々しき大事なれば事茲に至りては内情などには頓着なく規則に依て處分す可しと云へば云ふ可きなれども細かに事の實際を窺へば同一の規則にても之を行ふ手心の如何に依りては人の感觸に非常の差異なきにあらず例へば法官が法律を執行するが如く唯一片の法理にのみ依頼して事を處斷するときは枯燥殺風景の沙汰にして色も香もなき次第なれども所謂行政の處分にして操縦の機を心に〓め巧に之を操つるに於ては世俗の人情を犯さずして却て事を實際に行はれしむるの餘裕なきにあらず豫防規則の如きも規則其物に就て見れば多少不完全の廉は之ある可しと雖も斯る塲合の法としては決して無理なるものにあらざれば施行の實際さへ其宜しきを得たらんには今日の如き苦情もなかる可きに今の世間の風として傳染病豫防の事など〓〓も官の務となし之を官吏に一任して顧みざれば吏人〓〓亦これを〓〓〓〓の公務と心得、些末の事に至〓〓〓〓〓に規則の〓〓に〓〓之を行はんとして互の〓〓〓通〓ず果〓舊情の〓となりたるものにて畢竟政〓〓ともに事の〓質を忘れたるものと云はざるを得ず然るに今回京極區の醫會及び衛生會が私立の一體を以て自ら進んで事に當り成る可く官の手を煩はさずして豫防の實を擧んとするは恰も從來の蒙を啓き別に一機軸を出したるものにて我輩は大に其美擧を賛成する者なり顧ふに今日は府下を始め各地方共に醫會もしくは私立衛生會の設けも少なからざる事なれば若しも今後不幸にして傳染病の流行する塲合もあらば今度の例に倣ひ何れも自ら進んで豫防の事を引受け漫に之を官の手のみに依頼せずして自治の精神を以て之を處理することもあらんには現行の豫防規則も圓滑に行はれて人情を犯すことなく官民公私の便利この上ある可らず殊に醫會衛生會などを設けて平日衛生の事を研究するは畢竟かゝる時機に臨んで其力を致すが爲めなる可ければ我輩は京橋區醫會衛生會の美擧を賛成すると同時に全國にその例を開かん事を希望する者なり