「退て利を空うする勿れ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「退て利を空うする勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

退て利を空うする勿れ

鐵道漸く開通すれば都鄙の便利は云ふまでもなく上下貧富手を拍つて快と稱し生計萬歳を祝す可き筈なるに邊陬の地方にては却て心配を催ほしいよいよ鐵道の我地方に達する曉には利に敏き都人士は時を得て一時に我樂境に侵入することならん實直なる田舎人は終に之と競爭すること能はずして農商工業共に皆彼等の手に奪はるゝことならんとて文明利器の便に依りて地方の物産を振起し入り來る人を相手に大に自ら利するの計には思ひ及ばず手を束ねて只管思案に暮るゝ者多しと云ふ夫れと此れとは別の談なれども目下我國の問題は條約改正の一義にして世論甚だ喧しく法典編纂は云々裁判權は云々とて上書建白に及ぶ者あれば諤々の議論に餘念なきものあり或は外國人に日本人同樣土地所有其他の權を與ふる時は國の農商工業は終に彼等の手に落ちて日本人は哀れはかなき有樣に陥るべしとて竊に眉を顰むるものあり條約改正の一天、見渡す限りは心配の雲にして斯く云ふ我輩とても國權の消長人民の休戚に關する事とあれば聊か掛念する所なきに非ずと雖も熟ら熟ら今日の勢を按ずるに世人は消極的の心配に過ぎて積極的の工風に忘るゝ所あるが如し條約改正、内地雜居と聞き唯苦勞の種子を蒔くのみにして扨この一擧に乗し外國人を相手にして此方より金を儲け自から利して隨て國を利せんとの意氣組に乏しき其趣は鐵道を苦に病む彼の田舎人に似たりと云ふも過言には非ざる可し熟慮して敢行すべしとは獨逸の老將モルトケの秘訣にして時に遠慮心配も亦妙なれども區々心配を催ほすのみにて進で取るの勇氣なきは日本男子の愧る所にして我輩の取らざる所なり

近頃世界漫遊の途次我國に立寄りて名所舊蹟を巡遊したる或る外國人の談に氣候の温和なる山水の秀麗なる風俗の雅〓なる偖も日本は聞しに優る美國かな、見るもの聞くもの心を樂ましむるの種子ならざるはなくして殆んど歸るを忘るゝ程なれども只物足らぬ心地するは金の遣ひ道なきの一點なり余はあらゆる名所故蹟をは落ちなく經巡り土産物さへ夫れ夫れ調へ上等の旅宿にのみ泊りて先づ思ふ存分に散財したる心得なれども夫れにても一千弗は中々遣ひ切れずとて頗る不滿足の色ありしと云ふ少しく耳障りの言葉にして何か我國を蔑視したる樣に聞ゆれども今の我國情に於て外國人の斯く感じたるは如何にも尤も至極なる次第にして我輩は之を評して日本人の迂濶と云はざるを得ず苟も人を欺かず又強ふることなくして其人の財を散せしむるの道あらば之を勉るこそ商賣の本意なるに今來遊の外客は主人の無骨殺風景なるが爲めに散財の道を得ずして却て失望したりと云ふ即ち日本人が客の取扱を知らざるの罪にして商賣の拙劣と云ふ可きのみ聞く彼の歐洲の〓地として知らるゝ瑞西、伊太利、佛蘭西等の諸國にて來遊の外客を待つの手段は至て巧なるものにて日用の調度遊戯の具に至るまでも只管客の意に適ふ樣にして抜目なく備へ置き一度境に入る者は其の財嚢を蕩盡せしめざれば歸さず遊樂の法ますます便利愉快にして來遊の客ますます多く、ますます財を散ぜしめてますます國を富ますと云ふ此程の本紙に載せたる巴里雜記花の都の一篇を見ても彼の國人が心掛の程を知るに足るべし抑も外客をして其齎し來れる滿嚢の黄白を快く散ぜしめ懐中漸く寒くして快夢初めて覺め匆々歸途に就かしむるが如きは畢竟美國樂國の證にして毫も恥づ可き所に非ざるのみか其美を誇ると共に自から他國人の金を吸収するの媒なれば實に忽せにす可らざるものなるに然るに我國に於ては前條に記す如く天然人爲共に隱れもなき樂國と稱しながら來遊の客が數十日の旅行中、僅に千弗の金を費すに苦しみたりとは少しく遺憾の思ひなき能はざるなり今や條約改正其歩を進めて内地雜居の日も遠からずと聞くからには先づ此邊の容易こそ大切にして其實際の趣向は數々あることなれども茲に二三の例を擧ぐれば日本國中の名所舊蹟高山大川は勿論都府市街等の由來里程より旅宿案内に至るまで面白く英佛諸國の文に物し繪入名所案内として出版し來遊者の便に供するも妙なるべく先づ三府五港には美麗にして便利なる旅館を建て所々の勝地には夫れ夫れ休泊の備を設け或は波止塲停車塲等に於て來遊者に通辨案内の便利を與ふるの工風もあるべく或は遊戯塲、勸工塲、茶屋、料理屋を始め芝居相撲其他の興行塲に於ても外人の嗜好を惹くの法はさまさまあるべく何事も進んで取るの心構を以て工風を凝らさば限りなきの人事、其道々に依りて限りなき妙案あるべし詰り日本人は主人役にして外國人は遠來の珍客なりと心得一家擧て油斷なく待遇方に心を附くることにして入り來る外人をして千弗は愚か知らず知らず數萬弗を消費するも尚ほ物足らず覺えしむる仕掛となさば日本の富榮は實に計るべからざるものあるべし外國人が内地に雜居して諸種の事業にたづさはるに至らば我國財を掠め去らるゝの結果あらんとて心配する者もあれども利を射るの策は獨り彼等の専有に非ず苟も我國人にして眞實に利を重んじて進んで取るの心あらんには外來漫遊の客を相手にしても富源の一端を開くに足る可し況んや其他普通の商賣取引に於てをや内地雜居必ずしも彼れを肥すのみに非ず我々の心掛次第にて自ら大に利することある可し小心翼々徒に心配を催して退守の謀を爲さんよりも臨機應變の大膽策こそ願はしけれ故に條約改正に付き異論も少なからざるよしなれども其全體の得失論は姑く擱き外國人に利を専にせらる可しとの一義を以て内地雜居論を非難するが如きは我輩の感服せざる所なり