「重きを北海道に置くべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「重きを北海道に置くべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

重きを北海道に置くべし

北海道の面積は五千八百六十餘方里にして沿海周圍は七百餘里と稱し山岳河湖濕地等を除き其三分の一を開拓するも尚千九百五十三方里餘の沃土を生ずるの割合にして日本國中遺利の多く富源の最も深きものは唯一の北海道あるのみと申して可ならん左れば我が經國の士も夙に此に見る所ありて彼の水戸烈公の如き親から蝦夷に赴きて開拓の任に當らんと當時幕府に建議したることありしかども徒に俗吏を驚かしたるまでにして議遂に行はれざりし云云の次第は去る九月二日の時事新報北海道開拓論中に記述せし所にして其後更に古老輩に就きて當時烈公を始めとして時の識者と稱せられたる人人が北海道に對するの意見等を聞き質せしに古今その事務異なりと雖ども今より一層重きを北海道開拓業に置かざる可らざるの感想を發するに足るものあれば稽古徴今の心を以て先づ昔年の事情を述べんに烈公の北地開拓議は天保初年よりの立意にして當時幕府は北地を以て小諸侯なる松前家に委し之を顧みざりしを以て松前家は獨り北海の利を占めて重歛苛政の評判もあり折も折とて露國の船は往往北邊に出沒して其〓不容易なるより烈公は彼の北地論を起し時の閣老大久保〓〓守(小田原侯)に建議し其後水野越前守同阿部伊勢守執權の時も前後度度論陳する所ありしが議遂に〓〓〓〓〓〓天保初年より甲辰の退隱に至るまで烈公北地の建白文〓若しくは閣老との往復書類は其幾十通なるを知らず又その開拓の凖備に就ては彼の間宮林藏〓〓〓〓〓〓の事情の調査せしめ藩士中事業受持ちの役割〓〓め蝦夷の國名を日出の國と稱して開拓本部を中央に置くの見込もあり當時の熱心異常にして建白文中時俗を驚したるもの少なからず左記の一書は天保八年八月朔日公の幕府へ建言中北地の一節に係るものなり

 (前略)蝦夷地の〓は松前地〓にて西は〓州に〓り北〓〓ロシヤの〓〓〓海陸相〓し譬へば神國の〓門同様の塲所に御座候昔は蝦夷の北は人も住み不申不毛の土地と相見え候處近來ヲロシヤ國強大に相成り蝦夷の北カムサツカと申す所へ出張を構へ段段南方へ志し既に千嶋と申すは蝦夷とカムサツカの間の嶋にて日本の地に相違も無之候處千嶋の内ラツコ嶋と申す所迄は夷人蠶食致し彼國より來り候て住居致し候由神國の耻辱無此上口惜き事に御座候諸國の浦浦へ來りて亂妨等致し候とも萬里の波濤を越え來り候夷人共にて我は主、彼は客に候間長き内には夷人引退き候外無之候へば浦浦の海防大切とは乍申其〓淺く御座候處萬一此上ヲロシヤ人ども蝦夷地迄蠶食致し右土地へ出張を構へ神國を伺ひ候たより塲に致候はば裡門へ敵城をかまへられ候も同樣にて神國の大變此上は有御座間敷候世の中の勢、何事も南より北へ出で候は難く北より南へ出で候は易く尚更北狄は日夜朝暮神國をねらい神國にては蝦夷の事抔憂へ候もの先づは無之敵の勝手次第に致させ置き候間北狄益益南を志し候義差見え申候寛政の頃蝦夷地御拓きの儀篤く御評議有之候由の處昔しより松前志摩守家へ御任せ被遊候土地の事故御引上げに相成候も如何敷との御評議にも候哉其まま差置かれ候内果して騷動出來神國の耻辱を引出し候に付蝦夷の地御引上げ被遊志摩守も所がへ被仰付松前奉行御立、公邊の御持に被遊候御義誠に御尤千萬の御義に御座候處わづか十餘年過ぎ候へば又又元の如く御返し被遊候義乍憚御失策と奉存候蝦夷の土地松前家へ御任せにて行屆き候事に候はば元より御引上にも不及候へ共何を申すも極小家の義殊に古來より利益のみ貪り神國の御爲めに蝦夷地を切り開き可申抔と申す志は毛頭無之家風と相見え又たとへ志し候迚も人數も少なく力にも及び兼ね先づは當座の無事を好み夷人段段南を伺ひ候へば松前は段段跡しざりのみ致し候勢にて所詮右家へ任せ被指置候ては蝦夷の御開拓は六ケ敷候故一旦御引上げにも相成候事と相見え候へば松前奉行御立にても御模通り不宜候はば幾重にも永續の御仕法御評議にて神國のご威光くじけ不申樣被遊度事に御座候處間もなく御返しに相成り候段愈愈蝦夷地は北狄の蠶食へ御差向け被遊候も同樣にて何共殘念千萬に奉存候世上の沙汰にては蝦夷は寒國故御府内抔より彼地へ罷越し候へば病死人のみ出來、模通り不申とも申し尚又松前奉行其外彼地へ相詰め候御手當並に御備塲御入用等莫大にて永續に不相成と申候處元より極寒の土地には相違も無之候間艱難辛苦は差見え候〓に御座候右土地へ罷越し切り開き候は治世にては無此上大〓に候間實に神國の御爲めを存じ入りたとへ氷雪の中に〓を曝し候ても上の御威光をおしひろめ可申と張り込み候〓へ被仰付候て身命を不惜仕法立いたし候は〓存外病死人も出來申す間〓又御入用も被地の〓〓にて間に合ひ可申處右樣の人はいづれ一癖有之候者にて太平の御世には御見出しに不相成〓〓は無〓一〓通り〓て役向のもの御〓〓に相成り松前へ參り候も長崎浦賀へ參り候も同樣の心得にて勤役中家を富し候工風など致し左樣無之候とも柔弱にて眞實より國恩を報じ修心術無之候〓は諸事行屆き不申御入用も相〓み御模通りに不模成〓に御座候者も東夷の征伐は日本武の皇子へ命ぜられ三韓の征伐は神功皇后御みづから渡海し玉ひ其外國家の大事には親王又は將軍へ命ぜられ候義そのためし不少候處蝦夷の義は當時神國の大患にて恐多くも征夷大將軍の後任に被爲當候へば御出馬被遊候て御直に御下知被爲在候ても可然程の御義に有之候乍佛當時の勢右樣にも被遊兼候段は不及申上候へば重く御目代被仰付篤く御世話不被爲在候ては御屆に〓成間敷候所、以前の如く松前奉行御立て一寸御世話被爲在候迄にては御模通り不宜尚又松前の小家へ御任せ被遊候ては神國北門の鎭撫には甚だ相當不仕候云云                (以下次號)