「内務大臣の訓令」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「内務大臣の訓令」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

内務大臣の訓令

山縣内務大臣は去る廿五日各地方長官に向け訓令を發したる由にて其本文は昨日の紙上に

記載したれば讀者は既に一覽せられたる事ならん抑も西洋諸國にて新任の内閣首相が就職

の初には先づ第一に其意見を公にして施政の方針を示す例なれども我國にては未だ其事な

し前年伊藤伯が始めて總理大臣の地位に就きたる折施政の綱領なるものを發したる事あれ

ども之は單に政府部内の處置手順を示したるまでにして政略の公示と申す可き程のものに

あらず又黒田伯就職の時とても是れと云ふ可き程の沙汰を聞かず左れば今回の訓令も山縣

伯が内務大臣たる資格を以て各地方の長官に今後の心得を示したるものにして從來とても

斯る事例なきにあらざれば固より政略公示の端を開きたるものと見る可らざるは勿論なり

と雖も今度の塲合は少しく從前と異にして伯が登閣最初の訓令なりと云ひ且つは事、地方

の施治に關するものなりとは雖も其文勢を見れば滔々千數百言、目下の時弊と之を匡濟す

る方法とを痛論したる一篇の論策とも云ふ可く聊か以て伯が經綸の一端を窺ひ知るに足る

ものなきにあらざれば我々は此訓令に由て以て新内閣施政の方針を卜するも敢て不當なら

ざる可しと信ずるなり扨伯は今日の時勢に際し人心激昻して政論に競爭し黨比して相鬩ぐ

は勢の免れざる所なりとなし而して地方行政官たるものは此時に當り宜しく屹然として中

流の〓(てい・石+低のつくり)柱たるべきのみならず亦宜しく人民の爲めに適當の標準

を示し其偏頗を抑へ向ふ所を繆らざらしむることを勉めざるべからず要するに行政權は至

尊の大權なり其執行の任に當る者は宜しく各種政黨の外に立ち引〓附比の習を去り專ら公

正の方向を取り以て職任の重きに對ふ可し云々とて地方官在政黨外の一義に就ては特に丁

寧深切の注意を加へたるものゝ如し今の政府の有樣に於ては至當の論策と云はざるを得ず

依て思ふに前内閣の特色たる功臣網羅策は黒田伯の主執したる所にして大隈伯を入れ後藤

伯を入れ南海の潜龍たる板垣伯さへも一時は登門の沙汰ありたる程の次第にして全く其目

的を達したるが如くなりしも是等の人々は既に久しく民間に在りて各種の政黨と容易に離

る可らざるの關係を生じたるが故に其入閣は偶々以て前内閣に半政黨内閣の奇觀を添へた

るのみならず條約改正の問題などは此事情の爲めに却て世間の物議を多ほからしめたるの

跡あるが如し然るに今や山縣伯は地方官に戒むるに行政官たるものは政黨外に立ち引〓附

比の習を去る可き旨を以てしたるを見れば之に由りて以て新内閣が政黨に對する關係も自

ら窺ひ知ることを得べし即ち新内閣の主義は前内閣と異にして斷じて政黨の縁を絶ち閣員

に列する者は苟めにも政黨に關係せざるものと見て差支なかる可き歟、扨又地方施治の事

に移りて一地方の公益は全國の公益と相干渉せざるが故に町村郡縣の人民が各その町村郡

縣の公益を謀ることを忘れざるときは全國の公益は從て進まざるを得ず然るに今これに反

し一地方の人民にして却て中央の政論に熱心して其撰擧又は會議等を機として黨派の爭論

を開くことあらば其勢は延て小民に及ぼし怨讎相結び狂暴之に乘じ家を富まし國を利する

の業は得て興る可らず是れ必竟中央政治と地方施治とを混淆するの致す所なり云々の一節

は時弊に切なる辭にして實際に相違なしと雖も既に府縣會町村會の如き人民公議の塲所を

開て撰擧會議等都て戸外政治上の習慣を成し帝國議會の會員は其府縣民の公撰に附して其

會員は中央政府の議事に參與す可しと云へば斯る人民をして中央と地方とに論なく政治上

の撰擧又會議に黨派の爭を謹ましめ以て地方の政論を一轉するは實際至難の事にして地方

施治の上に於て此至難の事を能くす可きや否やは我輩の知らざる所なり又地方無智の小民

が狂熱の餘り怨讎相結んで喧囂紛爭するが如きは既に政論の爭を離れて狂暴の境に陥りた

るものなれば之を處分するには固より臨機の手段なかる可らず左れば訓令に所謂各位若し

懇に意を加へて提携訓導し其良知に訴へ釋然たる處あらしめば云々とは畢竟地方官たる者

の平生の心得を示したるものにして事の實際に至りては政府に於て自ら之に處する方略あ

ることならん其他教育殖産の事又人民に接するに上下阻隔する所なく法律規則の外に靄然

親和の情を開き處務手數に簡易敏速を主として煩苛の弊を除く可き事及び地方の經濟に勤

儉を勉め清廉を守りて豪華の習を痛斥する事に就ての注意は丁寧切實恰も慈母の愛子を戒

むる辭の如し地方官たるものゝ宜しく服膺す可き所なれども凡そ法令訓戒の如きは徒らに

死守せずして之を活用すること肝要なり勤儉の一事の如き當局者自ら之を守り身を以て卒

先するは可なれども若しも然らずして身を責ること薄く人に求ること多きが如きものあら

んには其弊、却て言ふ可らず地方官たるは亦宜しく此邊に注意し其精神を活用するの才覺、

肝要なる可し要するに今度の訓令は内務大臣の資格を以て各地方官に施治の心得を示した

るものに外ならざれども之に依て以て新總理大臣が經綸の一端を窺ひ知るに足る可きもの

なきにあらざれば我輩は聊か茲(玄+玄)に概評して以て世人と共に新政將來の方針に注

意せんとする者なり