「除隊の兵士」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「除隊の兵士」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

除隊の兵士

常備軍の現役は滿三箇年間にして之を終れば銘々思ひ思ひの職業に就かしむることなれど

も從來除隊となりたる兵士の身の有樣を聞くに例へば農家の子弟ならば郷里に歸りて以前

の如く耕耘に從事すべき所なれども在營三年の間に意氣全く豹變して從前の如くおとなし

く隴〓(ルビ・ほ・田+人、畝か)に入ること能はず時としては田舎不相應の容態を呈し

て父兄の苦情を招き其苦情を聽くには懶く田舎に埋るゝも不見識などゝて或は馬車の別當

となり將た走卒となりて遂に一身の方向を誤まるに至る者なきに非ずと云ふ、將さに國富

に參與せんとするの壯丁を驅りて兵戈の練習に從事せしめて却て國の溶金窩たらしむるは

誠に堪へ難き次第なれども國防兵備の要用ある上は復た如何ともす可らず唯其除隊の後に

於て適當なる方向に導き之を利用して國の富源の一助たらしむるは公私經濟の得策なる可

し世の論者中には此等の事情を見て今の兵營の内部を云々し改良の方案を立つる者もある

由なれども我輩は更に其邊のことを知らず現に別當走卒の如き人生に易からざる艱難を忍

耐する者多きによりて推測すれば决して職業の辛苦を厭はざるは勿論嚴肅なる兵律の下に

起臥したる心得を以てすれば世間の百事左程に難しとするに足らざるべしとは當人自らも

亦信ずる所なれども思はしき目的もなき郷里に歸りて固陋なる親爺の膝下に齷齪たること

能はざると共に左りとて俄に獨立の方向を定むべき便もなければ止むを得ず一時の走路を

求めて意外の結果を見ることならん果して然らば其變化したる思想を利用して之に勸むる

に北海道移住を以てし之を導くに適當の保護を以てせば除隊と同時に郷里を顧みず進んで

移住を志願するに至るや自然の人情なるべし北海道には既に屯田兵なるものありて窮士族

を保護すること甚だ渥く坐を設け膳を供へて懇待至らざるなしと雖も猶ほ内地に茫然とし

て無爲貧窶に苦しむもの比々少なからずして志願する者は志願し志願せざる者は所詮志願

す可き樣子もなし而して北海道の面積を顧れば人を容るゝの餘地綽々として興すべきの利

益亦少ならず日本の事情は正に北海道移住を促すの時機なれば北門の防禦を獨り今の屯田

兵のみに依頼せずして除隊の兵卒をも各地方の窮士族と共に之を優待し其數を多くして必

ずしも兵と農とを問はず廣く之を保護して其中より特に兵役を志願する者を撰び兵たる者

を兵として之を監督することゝもなさば費用は左程に大ならずして永年公私の利益を見る

ことあるべし

從來の陸軍豫備兵後備兵の守則なるものに從へば豫備兵即ち除隊の兵士が簡閲點呼及勤務

演習の役あるが爲め其師團の管轄外に出んとするには成規の日數限りありて永く滯在する

を許されず隨て他の地方に赴きて職業に就くの都合を得ざりしが我輩は前陳の理由により

成るべく有爲の壯丁を拘束するを好まざると共に元來兵卒なるものは將校の技倆次第に運

動するものにして其訓練は必ずしも精密なるを要せず三年操練を事とするときは終生戰時

の用に充分なるべしと聞く所なれば豫備の服役を全廢しても敢て兵事教育に欠くる所なか

るべし若しも猶ほ然らずとの懸念ならば其隨處の師團に於て隨時に之を執行するも妨げな

かるべしと思料せしに昨年の暮新に公布せられたる陸軍豫備後備下士兵卒服役條例にては

其第七條に監視區外に寄留する者は願により其地に於て簡閲點呼を受くることを得又一箇

年以上師管又は旅管外に寄留する者は願により其寄留地師管又は旅管に於て勤務演習をな

すことを得と定められたり我輩は大に其精神を賛成するものにして之と共に其範圍を北海

道にも推及ぼし同道に移住する者をば屯田兵本部にて點呼復習又は勤務演習を執行せられ

んことを希望するものなり或は云ふ七年にして常備の軍役を畢り五箇年間後備軍たるの任

を負ふは現今の制規にして此常備と後備とは戰時に最も肝要有力なる軍隊なり今此軍隊を

して始め三年の現役を終ると同時に隨意に北海の邊陬に赴かしむることともならば一朝交

戰の時に際し如何にして之を徴集すべきや鐵道の便利なきに非ざれども幾千の兵士一時に

之に乘るべきにあらず散在の兵員を召集して之を運送し了るまでには餘程の日數を要する

ことにてツマり緩急事に應せず軍備の軍備たる所以なきに至らんとの非難あれども是れは

歐洲中原の軍談にして日本の如き絶海の國にありては攻守ともにいよいよ合戰と决する迄

には决して左樣に急速のことにあらず唯此等兵員の出入來徃を監督するの本部だにあらば

北海の隅なり西海の果なり狹き日本國中これを召集すること决して難からず事の將に破れ

んとするに當りて徐に準備すべきのみ、之を要するに我輩の素見は今の時に當り有爲活溌

の壯丁をして空しく不生産的の事に從はしめ以て其終身の方向を誤らしむるは經濟の本意

に非ざるが故に平時事情の許す限り之を利用するこそ肝要なれど云ふに外なければ除隊の

兵士をして有益なる實業に就かしめんが爲め差向き北海道に移住するの道を啓かれんこと

を切望するに過ざるのみ