「學理と實業と密着するの機會あり」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「學理と實業と密着するの機會あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

學理と實業と密着するの機會あり

學理實業動もすれば相懸隔して密着の關係を失ふは古今萬國の通患にして我が日本國に於

ては殊に甚だしきものあるが如し盖し日本古來の學者は所謂御儒者連にして口には治國平

天下を講釋すれども世事に掛けては迂濶にして德川の世盛りに儒者の隊長と仰がれたる伊

藤東厓先生が三味線箱を見て其何物なるかを知らざるしとの奇談もあり總じて學者連中に

は一風變りたる人物多く商工實業家の眼を以て見れば其日常の擧動に於て殆んど半狂とも

申す可き個條少なからず漢學書生が衣は骭、袖は腕の装束を爲して月落鳥啼を吟じながら

大手を振りて街道を徃來するなどの有樣は本氣の沙汰とも思はれず襤褸を着て頓着せざる

ものあれば塵埃の中に居て之を意とせざるものもあり人の前にて虱を捫るは何とやら王猛

を氣取るが如く瓢箪しばしば空しきは顔回の再生とや云はん何れも實業家の禁句に觸るゝ

者にして當時農商工の徒が儒者の行状を忌み嫌ひ隨て其學問をも遠くるに至りたるは亦是

非もなき次第、「三代目唐樣で書く賣屋敷」など云へる川柳は事の實際を寫し出して如何に

も妙なり云々の感覺は今尚ほ人の腦鏡に映じて容易に磨滅す可からざるが故に今日文明の

學問は理化學、生理、經濟、法律、居家處世實業萬端に密着して相離る可らざる者なるに

も拘はらず學者は實業家を目するに無學無識を以てして共に語るに足らずと爲し實業家は

學者の無經驗にして徒に理論に走るを見て之に近くことを好まず即ち今我が日本國にて學

理實業の〓(ルビ・けい・目+癸)雎すること殊に甚だしき所以にして斯くては農工諸業

の發達固より期す可らざるが故に今後は事情の許す限り學者と實業家とを近づかしめ紺屋

酒屋醤油屋等を理化学者と觸れ合せ農學者と老農、獸醫學者と馬口勞、建築學者と大工左

官等を觸れ合はせ實地實物の前に於て各々その自得する所を示し學理は實驗の足らざるを

補ひ實驗は學理の至らざるを助け兩々相待て相發明する所あらしめざる可らず今その方法

如何と云へば固より種々様々なれども近來各地鐵道の延長するを利して諸學者の大會を各

地方に開き商工農業製造業等夫れ夫れ其實地に就き學者と實業家との意見を集めて學理實

驗短長を取捨し以て其業務の改良を謀ること最も肝要なる可きなり抑も世界各國中にて學

者集會の盛なるはブリチシ アツソシエーシヨン即ち英國協會に若くものなし而して此協

會は各地方の招待に應じて年々歳々その集會塲を移しエヂンバラー、バツスマンチエスタ

ー、バーミングハム等英國内の諸都府は勿論、現に數年前の如きは西の方大西洋を踰えて

英領加奈陀モントリオル府に開會したることさへあり斯くて年會を各地方に開けば數千の

學者は其地に集まり凡そ一週間内は演説を爲し討論會を催ほし學理實驗上に於て有益なる

意見を公にするは勿論、土地の農工製造業家は之れを機會に諸學者を迎へ或は造船或は紡

績或は金銀諸細工より電氣諸機關に至るまで遍く工塲を案内して夫れ夫れ其説の在る所を

開き學者は實業塲に入りて自から發明する所あり實業家は學理の適用を質問して更に利益

する所あり是に於てか學理實業相離る可らざるを悟りて雙方密着の關係を生じ以てますま

す其改良進歩を促すは文明學者集会の鴻益、國家實業の發達の爲めに明暗隱顯その助勢す

る所、實に莫大なるを知る可し左れば今我が日本に於ても學者の集會を一處に限らず之れ

を其向きの地方に開きて夫れ夫れ實地家との關係を求め彼の織物地方なる京都に桐生足利

に又釀酒地方なる灘伊丹尾州智多郡近傍には理化學會の集會を開き京都奈良には美術家の

會合を催ほし地震學者は信州肥後若くは磐梯山畔に會して縁故の地方に寄り集まれば學問

の研究も實際を離れず其研究論談の間に面白き結果を得ることもある可し且つ西洋の事例

にて申せば斯かる集會を開くの際には鐵道會社にても心を致して幾分か其運賃を割引し

何々會員の證票を有して何々地方に赴くものには乘車賃錢の幾割を減ず可しなど云へる特

約を許すを常とするが故に我が鐵道會社に於ても社會公益の爲めとあれば一時此等の特例

を發す可きは我輩の信じて疑はざる所にして諸學者地方に集會するには大に鐵道を利用す

ることを得べく又各地方の實業家も其事業上に就き學者の所見を聞くことを願ひ喜んで之

を優待して從來相互に懸隔したる學理實業の密着を謀るは我國目下の急務なりと云ふ可し

特に此急務に聯帶して我が學者實業家の最も注意す可き者は本年内國博覽會開塲の機會即

ち是れなり盖し本年の博覽會は所謂國家事業にして連年我が人文の進歩と共に未曾有の盛

觀を呈す可きこと固より言を待たざるが故に二歩の全國の實業家殊に其出品者は必ず參觀

することならんなれば此機に乘して學者農工製造業家は其向きの會合を東京に開き博覽會

の出品等に就き互に相論評研究するの工風を運らすこと最も肝要なる可し蓋し文明國人は

斯かる多人數集會の時機を空うせず昨年佛國大博覽會の際にも何々會議、何々集會など稱

して開塲六箇月中に巴里府に開會したる者その幾十百なるを知らず左れば我國の人々も本

年博覽會開塲中地方實業家の出京を窺ひ豫め其會合の時を定めて成る可く同時に參會せし

め博覽會に出入して出品實物を目撃するの傍、夫れ夫れ其論評奬勵の道を盡したらば學理

實業密着して農工製作諸事業上改良發達を促すこと必ず著名なるものある可し我輩は我國

都鄙の人々が今より其方法を講じて時機を空うせざらんこと偏に希望に堪へざるなり