「・國會に對する自から方ある可し」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「・國會に對する自から方ある可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・國會に對する自から方ある可し

國會の時日も追々切迫するに付き目下官民ともに其用意に忙はしと云ふ抑も國會開設の期限は既に十年前より定まりて何人も用意に怠らざりし事ならんなれども目前の急に逐われて未來の事を慮るに暇あらず唯國會々々と人の口に云ふのみにして扨いよいよ開設の當年となれば今更らの樣に思はれて却て平生の心掛の至らざるを喞つは今の人閒社會に免れざるの有樣ならん左れば政海の節季とも云ふ可き目下の時機に際し其向の人々が遽に周旋奔走するは固より其處にして怪しむに足らず又かの周旋奔走の有樣も人々の地位に依りて同じからず先づ民閒に於ては廣く同主義のものを結び多く代議士を出し政治の事項を調査して議事の參考に供する等目前に差掛りたる事も少なからざる可し政府に於ては議事堂の建築、議事規則の編製より會計の整理、議案の組立等差向きの用務多端なる事ならん而して民間の用意は暫く擱き政府が新聞の國會に對する方略は果して如何と云ふに前日の紙上に述べたる如く議事の方向、重もに商論税論の方に傾き餘り自由論などに熱せざる風ならば事頗る妙にして政府の憂も少なかる可しと雖も實際の事實は果して我輩の希望を空うせざるや否や甚だ覺束なしと思はるゝ其次第は是迄の經驗に我國にて政治の事に就き熱心奔走するものは所謂政論家の一類にして此輩は滿身唯政治の思想あるのみ其の熱心は感服の外なしと雖も其身分を尋ぬれば多くは舊藩の士族又は其流亞とも云ふ可き人々にして生來政治の理論には熱心なれども商論税論等に至りては甚だ不案内なるのみならず寧ろ無頓着とも云ふ可き者なれば撰擧法に夫々の制限あるにも拘らず其撰擧したる議員の多數が不幸にして所謂政治の理論家にてもあらんには議場の多言は自然の勢いなるが故に政府に於ても亦これに對するの用意なかる可らず思ふに此際政府が國會に對する要略は先づ會計を整理し議案を精密にし議員をして容啄の閒隙なからしむるやう注意することならんと雖も退て議員の性質を顧みれば元來政理一偏の論客にして今の政府に對し常に一種の感情を抱く者なれば政府より提出したる議案が何程精密にして數と形との上に於ては一點の非難す可きものなきも之を滿足して容易に滿足す可しとも思はれず然るに政府の方に於ては議場の多言を制するは議案の組立を精密にし他をして妄りに口を開かしめざるに在りとて只管力を此點に用ひ天晴熟練の答辨員を議場に出し議員の質問論難に對し一々統計を根據として四方八方に切拔け專ら形の上に於て他を制せんとするの覺悟もあらんか雙方の撞着は目前にして議場の混雜は遂に免る可らず如何となれば一方は專ら形の上に於て其功を收めんとし他の一方は却て形の外に逸して其所望を逞ふせんとするものなればなり然らば即ち此際に當り政府の用意は如何にして可ならん歟と云ふに我輩の所見を以てすれば議員の所望果して前述の如くなりとすれば政府に於ても大に其覺悟を改め形式上の功を計らずして大膽磊落以て國會に對するの一事に在る可しと信ずるなり人々相接するに禮儀作法の場所に於ては何事も兔角六ケ敷して澁るの常なれども所謂無禮講の席にては平生角ある人にても案外に打解くるもの多きと同樣の次第にして官民雙方互に隔絶して唯議場に於てのみ面を合せ一是一非甲論乙駁互に相爭ふばかりにては情誼相通ぜずして雙方の所望撞着する事もある可きなれば當局者は大膽磊落に構へて禮節の末に拘らず計數の煩に泥まず事の大體に渉るものは大臣みづから議場に出席して淡泊に之を説明するなどの事は申す迄もなく議場外平生の交際にも總て簡易輕便を旨とし公會宴會等の場所に於て造作もなく所懷を述べ又官邸私邸に於ても議員其人は勿論其他の有志者にも容易に面談し直に胸襟を披て議論を上下するなど表面形式の外に更に官民相違するの風を開きたらば其間の情誼互に相通じて議場の内外ともに事の圓滑を致すに足る可し我輩は今の時に當り會計の整理議案の精密等の用意を以て不必要となすものにあらずと雖も當局者が尋常形式の外に於て大膽磊落の對議員法を以て更に必要なる可しと信ずるものなり