「・寶物預所」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「・寶物預所」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・寶物預所

人の世に居る用心深きを以て大切とす人生七十古來稀なりとあれば生命保險の法に因りて生前に死語の計を爲し近世の蒸氣船堅牢なりと雖も時に難破の憂ありとすれば海上保險の法に因りて財産全失の難を免れ火災保險、鐵道保險夫れ夫れ人生の危險に應じて之に處

するの道を講ずるは文明國人の智慮に富んで用心深き一大美德として見る可きものなり抑も此保險の方法は西洋國人の發明にして古來東洋諸國に於ては類似の仕組なきのみならず士人たる者が一身の計を爲すは何か不外聞の氣味にして淸貧洗うが如しと云いひ箪瓢しばしば空しと云ひ家に〓石の貯なきを一種の名譽の如くに思ひ下流職工の輩に至りては所謂宵越の錢を所持せざるを以て其肌合を示すなどの奇風もあり東洋の詩人杜牧之は凶年兒の餓死を致したれども英國の詩宗ウオルタア スコツトは生命保險會社の創業者たりしが如き亦以て東西人情の向ふ所を知るに足る可し左れば往時の我國人は財産保險等の事に關して至て不用心なりし事情も多く現に今より十數年前佛國博覽會に陳列したる我が古器物出品を日本に積み戻さんとするに當り其品物に保險を附く可きや如何の議題を生じたることありしが當時海外在留人の中にも保險の性質を知りたるもの少なく評議最中一人の説に抑も此度の便船には人間が乘り組み居るに非ずや貴重なる人間さへ海上の保險とてはなきものを荷物に保險など何にかせんとて一時座論を壓倒したることありと云ふ當時我國の人情氣風より察すれば右等の奇論も奇ならずして士人中に通用したることならん然るに十數年來我國人の思想は事物と共に一變して人々保險の何事たるを知り生命保險、海上保險などの類、次第に其事務を擴張するの運びとは爲りたれども日本家屋構造法の然らしむる所か災難中の大災難たる彼の火災の一事に關して保險法の發達し兼ねたる有樣あるは我輩の遺憾とする所なり抑も今の日本家は概ね木造にして都會繁華の場所柄には屋上制限ありと雖も屋前屋後は火に耐へ難く霜夜烈風に火事起らば數百千家に延燒して目も當てられぬ慘状を呈すること毎度我輩の見聞する所にして斯かる危き家屋には保險の適用も覺束なく左ればとて俄に其構造を變じて煉瓦石造と爲さんとするも實際行はる可きに非ざれば日本の家屋に向ては當分火災保險を談せず徐に其の構造法の改まるを待つの外なしと雖ども爰に我輩の一言して敢て世人に訴へんとするは從來日本家の類燒する毎に通常財産を損害するは勿論、或は名家の災難に因りて書畫珍器諸美術品等、又と世になき物品を失ひ國家財寶の源を枯らすの患あること即ち是れなり今財産を保全し事物に用心深きを以て處世の一大要訣なりとすれば好し火災保險に因りて豫め災後の計を立つること能はざるも今の實際に行はる可き一種の簡便法に因りて家重代の寶を守り其の消失を免るゝこと世閒思慮ある人々の大に注意す可き所ならん現に府下に住居する士人にて自宅に衣類器物等金目の品を藏するは頗る危險の事なりとて府中最も確實にして堅固なる倉庫ある質屋を撰み例へば一千萬圓の品物に十圓乃至三十圓を借りて其金の利子を拂う代りに其品物をば大切にして決して汚損の患なきやう質屋と内談したる者ありと云ふが如き用心の周到なる固より凡ならざる可しと雖ども質屋に品物を預けるは人の習慣感情に於て何となく異なものにして廣く世間に通用す可しとも思はれず且つ其身元の確實なる其倉庫の堅固なる質屋は極めて稀なる可きが故に當初より此邊の目的を以て爰に寶物預所なる者を設け都會中火事水難の及ばざる所に煉瓦造なり石造なり堅固一偏の倉庫を作りて之を實物の安置所と爲し便宜の場所に出張所を置くか或は寶物所持人の通知に應じて夫れ夫れ出張受渡を爲すか兔に角便宜の手段に因り其寶物を預かりて堅固大切に之を守護し何時たりとも之を返へし又之れを預かりて成る可く輕小の預かり料を收めて以て世人の需要に應ぜば今の日本の實際に於て都會に住居する名家にては其財寶の安置所を得て彼の質屋に托するの比に非ず大に便益を享く可きなり我輩曾て英國に於て遺言書保存所を一覽したることありしが此遺言書保存所は政府記録局の管理する所にして倫敦府サムマーセツト館の内に在り千五百年代頃より英國諸家の遺言書を保存すること其幾百萬通なるを知らず彼の有名なる文人シエークスピヤの遺言書の如き今尚ほ同館に寶藏し貴族政事家僧侶商人文人墨客に至るまで夫れ夫れ其遺言書を作りて之を保存所に持參すれば保存所にては保存料一通に付き一シルリング(我が三十三錢三厘)を取りA.B.C.の名順に因りて之を倉庫内に排置するの趣向にして其書類の年古き者は之を一封に取り纏めて整頓法を立て又其遺言書を書き換へんとする者あれば新舊を引き換ふる等其取扱を鄭重にして異日遺言の事に就き何人か訴訟を起すことあれば保存所内の遺言書を以て其當否を裁判し法廷の證據物としては最も有力なることありと云ふ即ち遺言書保存所の例を移して之を我が諸般の寶物に適用し都て貴重なる品物は一時なり永久なり成る可き粗製の日本家に藏することを避け之を堅固安全なる寶物預所に預けて國家の寶たる珍品佳物は一品一物たりとも失はざるやう殊更その保存を重んずるは文明國人事物に用心深きの美德として我輩の贊助する所なれば世上志あるの士人は官民何れの向きを問うはず大要此邊の意見を以て寶物預所設立の工風を廻らしては如何、我輩の竊に期待する所のものなり