「 農商務大臣の演説を讀む 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 農商務大臣の演説を讀む 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 農商務大臣の演説を讀む 

過日農商務大臣が各府縣知事を本省に集めて演説をなしたる其大要は既に本紙に掲載せし所にして徹頭徹尾一々理に中り殆んど異議の容るべきものなきが如し而して其演説の前一半は農商政務の方針に關する意見にして「初めより政務の方針概定したるものありたらんには假令へ幾度長官に更迭あるとも何等の差支をも生することなかりしならんに之れなかりしが爲め徃々銘々の意見によりて事を處理するの結果を來したるの跡なしと云ふ可らず」とあり是れにて我輩も農商務省は果して主任大臣の更迭によりて其方針を動搖したるを知り竊に現大臣と憂を共にして今後の方針を一定せんことを希望するに切なりしが大臣は「事に物を云はしめ物に物を云はしむるの手段」を取りて篤と實際を取調べたる上適當の針路を定むべしと云ふのみにして未だ何れとも一决したる所なきに似たり我輩倩々按ずるに農商務省が民業に干渉すべきや將た干渉せざるべきやは大體上方針の岐るゝ所にして全く放任とすれば夫れまでのことなれども若しも何等かの干渉を試むるとすれば如何なる部分に向て何れの邊にまで及ぼすべきや政府は達觀にして智識の本源なるが故に恰も人民の指圖役となり積極的に殖産興利の方向を指導して其知らざるを教え其思はざるを諭し奬勵鼓舞以て我が國力を作興するの方針を取るべきやと云ふに此事の實際に行ふ可らざるは獨り我日本のみならず西洋諸國に於ても政府の仕事にあらずとして學者政治家の定論ある所なれば我が農商務省に於ても思ふに其戒に違はず必らず弊を去り害を除くを以て干渉の區域となし消極的の政務を主とすることならんと我輩の飽までも信ずる所なり斯く方針を定むるときは農商務の範囲極めて狹小なるに似たれども我輩を以て之れを見れば决して容易の事にあらず抑も農工商の事は廣く且つ大なる==本來立國の要素なれば他の各省の事務都て重要なりと雖も農工商を餘所にして獨り其道を行くべきにあらず左れば各省にても此邊に充分の注意あるべきは勿論なれども農商務省は専門の眼を以て農工商民に代り力を極めて其利益を保護し其困難を救治せざる可らず例へば收税の法に於て原野を變じて耕地となすものあれば之に向て耕地の税を賦課するこそ正に收税吏の本職にして固より至當の處置なれども若しも耕地にして翌年より直ちに相當の收獲を見ること能はざるにも拘はらず成規通りの租税を課せられて收支相償ふの見込なきより止むことを得ず計畫を見合はするが如き内情ありとせば農商務省は能く其事實を明かにして着手の便利を與ふるこそ人民の身に取りて恩惠此上なかるべし或は灌漑の用に供せんとて山中に池を堀りたるが爲め忽ち沼池税を賦課せらるゝときは農民は為に如何なる困難を感ずべきや或は子供の衣服に充てんとて機織をなす者なれば之を以て一の工業と視做し地方税を課せらるゝとせば工業の発達上如何なる影響を來たすべきや其他登記法の繁雜なるは如何、官廳事務取扱の鄭重なるは如何とて一々實際の情况を査察し彼是と思を馳せて農工商民に係る各種の困難を排除せんことを務むるときは當局者の繁忙一方ならざると共に人民が其澤に浴すること遙に積極的の興利策に勝るものあるべし我輩が農商務省今後の方針として必らず玆に出でられんことを希望するものなり

又大臣の演説中その後半を按ずるに殖産行政に關する法律規則は本郊實業上の現况沿革等を以て基礎となし海外諸國の法規の如きは只これを參考に供すべきのみと云ふにあり道理至極の=(ルビこと)にして我輩は之を從來の實跡に徴するに規則を發して好結果を見ざりしもの明かに二條あり十州鹽田組合規則及びブールス條例即ち是れにして鹽田規則の如きは發布後間もなく苦情百出して徒らに議論の種となり採鹽人民は涙を以て之を撤去せしが得る所の結果は波瀾の動搖に過ぎざりしなり事既徃に屬するが故に今玆に問ふを要せざれどもブールスに至ては其由て來る所果して本邦實業上の現况沿革等を以て基礎としたるものか或は海外諸國の法規を本として却て本邦の現况を變して之に適せしめんとしたるものか、之を明言す可らずと雖も兎に角に今日の實際に於て如何にしても行ふ可らずとすれば或は其基礎の所在を異にしたるの嫌なきにあらず即ち現大臣の最も取らざる所なりと我輩の竊に信ずる所なり然るに其ブールスは今日暫時中止の姿に居り之が爲めに全國の株式取引所米商會所は安堵するを得ず莫大の財産を半空に懸けて之に關係する商人は恰も地上の波に動搖せられて疑懼巳まざるものゝ如し左れば西洋流の理論又その慣行の如何に拘はらずブールスなるものが果して今の我日本の商賣社會に不適當なりとあれば敢て深き思慮を要するに非ず商業保護の眼より觀察を下だし實際に行はれざるものを行はれずとして今日唯今より斷然廢止の沙汰あらんことこそ願はしけれ不安心ほど妨害を與ふるものあらざるなり之を要するに大臣の演説は唯旨意の梗概を示したる迄にして分明に方針の向ふ所を斷言せずと雖も詳に之を通讀して我輩の希望の必らず空しからざるを豫期し闇黒夜中微かに燈光の閃々たるを悦ぶ者なり