「農商務省」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「農商務省」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

農商務省

人間の慾は限りなきものにして一を得れば二を望むのみならず其既に得たるものは之を隱して未だ曾て得ざるの風を裝ひ尚甚だしきは他より恩德を蒙りながら其恩德の事は黙々に附して稀に苦しめられたる其苦痛のみを計へて不平を鳴らす者さへなきにあらず即ち凡俗普通の常情にして人間も亦自儘勝手なるものと云ふ可し我輩は今この俗情を抹殺せず十分に自儘勝手なるものとして扨こゝに廣く天下の公論を聞かんと欲するは農商務省の設立以來今日に至るまで日本國中の農商民にして該省の恩德を蒙りたる者有るや無きやの一事なり抑も農商務省は農業商業工藝技術漁獵山林地質鑛山及び營業會社に關する事務を管理すと稱して省中に農務局以下凡そ九局を置き設立以來今日に至るまで九箇年の間に内の官制を改革し外に法令を發したること少なからず何れも皆民業を勸めて其妨害たるものを除くの趣旨なる可し元來農商の事たる人民自利の心の自發するものなれば苟も其發達を妨るものは直接に間接に之を拂はざる可らず或は國家永遠の長計の爲めには有力無害なる新法を布いて殖産の根本を養はざる可らず大藏省は既に民力に有るものを集めて又散するものなれども農商務省は其民力の發生を導くものなれば國家に關する所或は大藏省よりも重しと云ふも不可なきが如し然るに不幸なるは過般岩村大臣の演説にもある如く省の設立以來未だ方針の一定するものなく之に加ふるに長官の更迭は頻繁にして今日に至るまで同省に限りて是れと申す可き事務の擧りたるを見ず我輩の推量或は齟齬するやも知る可らざれども試に今天下の農商に向ひ汝等は九箇年以來農商務省の德澤に浴して直接間接に便利を蒙り自家の生活營業に益したることあるやと尋ねたらば然り德澤を蒙りて云々と答ふる者は甚だ稀なる可し盖し人の常情にして自家の自儘勝手に任せ、蒙りたる德を黙々に附する者ならんかなれども我輩の所見に於ても其德澤の所在を指點すること甚だ易からず然るに一方より觀察して從前同省の勢力に由り規則に由り條例に由りて發生したるものを計れば營業社會を動かしたるもの甚だ少なからざるが如し共同運輸會社の創立も専ら同省の奬勵に係り其成行は三菱會社との大競爭と爲り一轉して兩社合併と爲り今の日本郵船會社は八十八萬圓の補助金を得て僅に舊三菱會社の事を行ひ三菱の時代には二十五萬圓の補助を以て十分に出來たるものを共同運輸會社の一擧を以て其末は遂に八十八萬の要用と爲り前後の差六十三萬圓を以て年々國庫の累を成すとは隨分容易ならぬ事と云ふ可し又十州鹽田會の事も農商務省にて民業を保護せんとするの意に出でたるや疑なしと雖も扨これを實施するに當りて種々樣々の苦情を生じ甲の利とする所は正しく乙の不利と爲りて幾年の久しき一地方鹽民の生計を失はしめ果ては止むを得ずして無規約の舊に復したりと雖も其鹽民は違約の被告と爲りて數年の難澁に續くに罰金を促がされ今後如何成行く可きや未だ知る可らず左なきだに渡世の易からざる貧民等が人爲の規則に苦しめられて衣食の計を失ふとは誠に憐む可き次第にして平地の波に動搖せられたるものと云ふの外なし又林區の制度は經世の一要事たるに相違なしと雖も今日その制度の實地に適するや否やに就ては世上の議論甚だ少なからず官民共に不慣の爲めに事の實に益なくして意外の邊に意外の弊害を生じたることはなきや利弊相伴ふは人事に免かれ難き所なれども山林法に就ての利益は能く其弊事と差引して餘剰あるやなきや我輩の容易に答ふること能はざる所のものなり又彼の有名なるブールスの一條は其落着を如何するや大切なる商賣の大利害を半空に懸けて歸する所を告げず夫れも新條例が我取引社會の實際に行はる可きものなれば舊法を改めて穩に新舊の入替も亦自から一説ならんなれども其行ふ可らざるは既に己に人の知る所にして強ひて新法を用ひんとすれば竊に規則を犯すの外なし斯くまでに分り切ツたる事實を看過して商賣安を顧みざるが如き我輩は唯その理由の在る所を知るに苦しむのみ

左れば我輩も亦凡俗中の一人にして自儘勝手の俗情に眩するものか自から知らざれど農商務省の設立以來その民業に對する功德恩澤を發揚せんと欲して之を見出すこと甚だ易からざるに反し其條例規則等の爲めに商賣上の不利を致して或は遂に國庫の累を爲し或は貧民の生計を辛くし或は商人の大損亡を醸したるは着々見る可きが如し國の不幸と云ふ可きのみ然り而して此の不幸は必ずしも省の官吏その人の罪に非ずして實は我政治社會の變動の餘波に由て然るものと云はざるを得ず凡そ諸省の中にて長官更迭の頻繁なる農商務省の如きはなし即ち政變の勢に從ひ止むを得ず更迭したることにして舊令尹の座未だ温ならずして新令尹の來るあり其間に省務の得失を詳にして民利の在る所を視んとするも固より能くす可きに非ず然るに民間に苦しむ者は甲長官の椅子を占るを見て大に望を屬し今度は必ず云々ならんと竊に雀躍する甲斐もなく其椅子は忽ち乙某の占る所と爲り甲乙丙丁殆んど際限あるなし政治の事情は固より錯雜にして隨て長官の心事も忙しく其本職たる省務を視るの暇なかる可し我輩の深く察入る所なれども民業の安否は天下の大事にして一日を等閑に附す可らず今回岩村大臣も其就職日尚淺しと雖も地位は既に定まりたることなれば片時も猶豫せずして省務に一面目を改めんこと冀望に堪へず若しも然らずして九箇年來の舊慣に依り事務不分明にして方針定まらず法令繁にして民業安からざるが如きあらば國の爲めに大切なる農商務省なりと雖も寧ろ斷じて廢省を勸告するものなり