「國會議員に商業思想あらんことを要す」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國會議員に商業思想あらんことを要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國會議員に商業思想あらんことを要す

〓民に政治思想なし云云の嘆は我輩の毎度耳にする所なれども國會開設も最早數箇月後に迫りたる今日、世間一般の有樣を見れば到る處政黨談ならざるなく地方に因りては政論の爲めに父子反目し朋友疾視し穩當ならざる擧動も少なからず政治思想の順なる者に非ざれども其思想の政治に專なるや疑を容れず左れば今日我國の實際に於て政治思想の熾んなるは殆んど豫想外なれども顧みて其商業思想如何と云へば人人之れに冷淡なること是れ亦豫想外にして憲法と云ひ若くは其解釋と云ひ凡そ此向きの問題は人人好んで喋喋すれども商業上の問題にて數字の少しく込み入りたるものは雲烟過眼、之を細視熟考する者甚だ稀なるものの如し斯くて此流の政論家が追て擇まれて國會議員と爲り商業經濟的の問題に觸るること益益多きに至りたらば如何、當人の迷惑は暫く置き迷惑なる人に議せられて利害損益を支配さるる商賣實業家の迷惑は一層甚だしきことならん抑も我輩が今日に當り未來の國會議員に向て特に商業思想あらんことを望むは他に非ず數日前の時事新報中、官邊に商賣の思想あらんことを望むと題する一篇にも記し置きたるが如く日本政府は士族學者流の淵叢にして施政上に美なるもの少なからざれども金錢商賣の事に至りては時に机上の理論を以て天下の活運動を制せんとするものなきに非ず畢竟累代の士風として一般に商業の事を卑しみ之れに注意する者少なかりしかば徳川時代文學の盛んなるを以てするも經濟理財を講説したる者は熊津蕃山、中井履軒、物部徂徠、新井白石、佐藤信淵の數氏に過きず誠に寥寥たる者なれども此寥寥たる經濟論も多くは社會の大法に通ぜず人事は總べて官府の仕向け通りに行はるる者なりと信じて或は金利に制限を置き或は商品の高直を患へて其直段の割引を命するが如き毎度學者流の説に出てて之を實施したるやうの次第にして商賣社會の秩序と云ひ理財自然の傾向と云ひ之れに頓着せざるの流儀なりしかば其學流を引き來りて今の要路に立つ者の中にも商業上の事に就ては遺響餘韻を今に存して古風の調子を追ふものなしと云ふ可らず先頃金澤の〓進社員が土地の米商會所にて定〓米を賣買するを以て米價を騰貴せしむるの弊ありとし米國仲買人に力迫したり云云の報知ありしが其擧動の穩かならざるは申すまでもなく政府も〓〓〓〓〓を命じたる〓なれども此論鋒たる决して偶然に起りたるに非ず人力を以て長く物價の高低を左右し得べしとの精神は古流經濟論中に充滿して幾百年間人を誤りたる者にして所謂商業思想なく累代遺傳の想像に訴へて事を判斷する者の中には官民共に此等の考案を抱く者多かる可し此時に當り國會議員として立法の局に當り商工實業上の利害得失を評决する者は責任の大なること如何ぞや五尺の身體、渾べて商業思想を以て充滿せざる可らざる程の次第ならん今海外の事例を按ずるに英米其他商賣國にては商業社會獨立を保ちて漫に政治家の干渉を許さず商工業上の法律規則は政治家の自から工風するものに非ず即ち國會議員等が斯く斯くの條例は商業上に利益ある可しとて之を議决する者よりも寧ろ彼の商人の方にて斯く斯くの條例こそ必要なれと數へ立てたる其目録中より拔萃して之を施行する者多きが故に商工業上の立法に關して自から根據する所あり國會議員の責任も又幾分か輕きものの如くなれども凡そ彼の國の習慣として國中洪大なる土工事業、例へば英國などにて申せば倫敦リヴアプールの船渠築造若くは目下工事中なるマンチエスター運河開鑿の如き國會議院の决議を經て夫れ夫れ其命令條案を發する事にして斯かる大工事に關しては國會は特別調査委員を撰んで其利害を調査せしむることあり或は公共立の會社等にて其會計若くは事務に就き世人の疑惑攻撃を受けたる時、特に國會議院に向て其會計事務の■(てへん+「檢」の右側)査を請願することもあり此等の塲合に臨んでは周密なる商業思想を以て公平なる調査■(てへん+「檢」の右側)分を爲し其當業者の迷惑を來さざるやう大に意を用ひざる可らざるが故に國會議院は各種の實業家を網羅して常に衆智の府たりと云ふ然るに我國の商業社會は未だ獨立の勢を成さず商人は政治家の鼻息を仰で如何なる法律條例が一朝突然に天降るも内實窃に當惑するのみにて外面は先づ以て之れに服從するやうの次第にして商業上の法律規則を商人の方より當てがひて政治家は唯其制法の手續を爲すに止まるが如きは今日我が商人の殆んど夢想し得ざる所ならん斯かる事情のあらん限りは國會議員たる者も一層其責任の重きを知り政府と商業社會との間に立て實着精密の考案を出し古流經濟論の其間に起りて商業社會の秩序を紊さんとすることもあらば根本より之を論破して一方には政府の缺を補ひ一方には商賣安を庇護せざる可らず即ち我輩が今日に當り未來の國會議員に向て敢て商業思想の必要を説く所以のものなり