「法律の始末よりブールスに論及す」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「法律の始末よりブールスに論及す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

法律の始末よりブールスに論及す

石油取締規則は直に人民の利害に關すること薄きが故に自から物論も少なしと雖もブールス法は則ち然らず抑も此新法の起源は何れの邊よりしたるか知る可らずと雖も當初政府が之を發する時に當りて其向きの商人等へ恊議するにもあらず官吏獨發の意見を以て人民商賣上の規則を製作し之を實施せんとして直に商賣に差支へて大困難を生したるは事實に於て明白なりとす依て我輩が爰に問はんとする所は一國の政府たる者は國民の商業即ち其生活に對して容易に利害を犯すこと斯の如くするも政府の權利に於て妨なきや、其徳義に於て累なきや否やの一事なり相塲所の得失その要不要の議論は第二着として兎に角に人民が社會に對し直接の害惡を爲さずして業を營み以て各自の生活を計る者は正當の営業にして正しく國民の權利なれば立憲國の制度に於て此權利は犯す可らず我日本國の憲法亦ここに注意して其民の權利を重んずるの精神窺見る可し竊に案ずるに舊來の相塲所は營業五年の期限を以て許可を得たるものなれども其滿期に至りて繼續を出願すれば例に依て許されざるはなし法律上の文面は兎も角も徳義より云へば永年の營業を約束したるものにして其株式の如きも營業の繁昌するに從て次第に騰貴し百圓の株は三百圓より四五百圓にも賣買し之を所有して毎〓の配分を利し以て一家の生計を成すものさへ少なからず然るに一朝政府の筋の考にて相塲所の改革を企て舊來の沿革に〓て改良を加ふるに非ずして所の根底を覆へし〓〓は五箇年の期限なるが故に約束の如く其期限を以て終る可しと命ずるとは實に驚入たる次第にして國民に對し其權利の保護厚しと云ふ可らざるものの如し之を喩へば五箇年の期限を以て地面を貸し之に〓〓を〓〓して家業を營み借地證書の滿期に至れば〓〓らず〓文の書替にて幾年も營業したる者に對し一朝地主の出來心を以て其書替を承諾せざるものに異ならず日本古來借地の習慣になきことなれども政府がブールス法を以て相塲所を苦しましむるの事情は正しく此地主の借地人に於けるが如し故を以て前年新法の將さに發せんとする時に當り東京にても株式米商兩所の株式は一時に下落して倒産の慘状に陷りたる者甚だ少なからず當時府下に老醫某あり醫業も流行に後れて意の如くならざるより貯蓄の金員千圓ばかりを以て相塲所の株式を買ひ老餘の生計を頼みて安心の折柄ブールスの一聲忽ち大變を生じ政府の嚴命を以て相塲所は御〓しと承知して事の前後を吟味するに遑あらず精神錯亂して自殺したりと云ふ今日にても東京株式取引所の株の價は二百六七十圓に上らず米商會所の株も大抵同樣の景氣なる可し然るに兩所にて一年の純益は合して十五萬圓より少からざるよし株式取引所の資本二十萬圓、米商會所の資本十萬圓共計三十萬圓に對して十五萬圓の收入あれば年五割の利にして株の價は安くとも五百圓に下ることなき筈なるに市價は則ち二百六七十圓を過ぎず尚ほ其上にもいよいよ來年七月限りに取潰すと定まりたらば正味二百圓の價もなかる可し即ち兩所株主の資産は實際百五十萬圓なるを政府の一法の爲めに五分の三を失ひ僅に六十萬圓に削られて九十萬圓を空ふせんとする者なり實に商賣社會の大波瀾にして斯る波瀾を容易に起すは政府たるものの權利にあらざる可し假令へ或は法律上に妨なしと云ふも其徳義上に於て聊か安からざるの意味なきを得ず且つ又相塲所存廢の利害に感ずる者は單に株主のみにあらず所の役員仲買人を始めとして所に出入し之に關係する諸商人より町使の小供、出入の盲目按摩に至るまで全國の各所を共計したらば富者もあり貧者もありて夥しき人員なる可し然るに今相塲所の運命を半空に懸けて此無數の人民を驚かし一時に狼狽して衣食に泣かしめんとす斯の如くして政府は果して何等の所得あるや唯當さに怨望を買ふに足る可きのみ立國の本として商賣を重んじ商賣を勸めんとは政府の筋の常に言ふ所なれば商賣の大本は私有權の堅固なるに存するとの一義も亦飽まで了解せらるる所ならんに全國の相塲所は其私有の資産を半空に懸けて浮雲の如し商を重んずるの精神は果して何處に在るや、又斯民を塗炭に救ふの旨は日本政府の本色にして近來米價の騰貴を見てさへも細民の救濟云云とて誠に優しき其優情に反し相塲所に關係の人民は其政府の新法に窘められて故さらに衣食を失ふの災難に罹り一方に塗炭に救はるる者あれば他の一方には塗炭に陷る者あり都て是れ地上の波瀾にして其起源に立戻りて仔細に吟味すれば差したる要用もなくして大事に至りしものと云はざるを得ず我輩特に舊相塲所の利害にのみ心を關するにはあらざれども商賣社會の微力にして其私有權の危きは之を默默に附するを得ず相塲所の運命の如きは其最も著しきものなるが故に前年ブールス法の將さに起らんとせし其時より之を痛論して毎度讀者の〓を煩はしたることあり今回は農商務大臣の更迭もあり又ブールス取調の爲め歐米に派遣せられたる官私の委員も歸來のことなれば宿論の旨を再びここに開陳して輿論の在る所を聽かんと欲するのみ