「日秘鑛業會社の失敗」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日秘鑛業會社の失敗」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日秘鑛業會社の失敗

昨年十月の事なり南米秘露の奇商某氏一人にして五十萬圓を出し日本の紳士紳商等凡そ十

數名にして又五十萬圓を投じ都合百萬圓の資本を以て日秘鑛業會社なる者を起さんとする

の計畫あり事の縁起は日本の或る鑛山學士が近年秘露内地に入りて同地の銀鑛を檢〔手偏〕

分し其採掘上に就き右の奇商某氏と深く協議する所あり其鑛石を齎らし歸りて之を分析試

驗せしに百分中二十六の銀分を含むものもありて愈々採掘に着手せば資本百萬圓に對する

利益金凡そ九十萬圓にして役員賞與金並に準備金を引き去るも尚八十餘萬圓の純益に相當

すと云ふに在る由、我輩は當時この風聞を耳にして不審に堪へず鑛山學士が專門の眼にて

十分觀察したる者なりとあれば銀鑛の性質並に之を採掘し之を精製運送する手續等萬端迂

濶の談なかる可しとは思はるれども其豫算の割合に於て純益八九割とは果して如何、企業

に勇敢なる歐米人が斯かる大利ある鑛山業を今の今まで見出さゞりしは如何、特に奇商某

氏は身秘露國に住居して此銀鑛業を起すに就ては一手に全資本の半額を引受け五十萬圓を

出すの力ありと云ひながら此異常の利益ある事業を今日只今まで看過して曾て自から着手

せざりしは如何、眞實信用ある商人が眞實利益ある事業を起して共に利を語らんとすれば

僅々五十萬圓の金額、歐米諸資本家の其中には即席に相談に應じて其出金を諾するものも

ある可きに然るにワザワザ日本人に謀りて資本を得んとするは是れ亦如何、我輩は鑛山業

などに不案内なる者なれども人間通俗心に訴へて苟も許す可らざるものなれば爲めに一片

の諷言を呈して企業當局者の猛省を祈りたることありしが爾後當局者は技師を隨へ又數十

名の坑夫を率ゐて遂に秘露國に出張し既に數萬圓を投じて其坑區を買入れたる由なれども

愈々採掘の段に至りて當初の目的果して齟齬し折角買入れたる坑區さへ今は無代價にて抛

棄するの外なく企業以來今日に至る諸般の雜費を合算すれば同社株主の損失は凡そ十八九

萬圓に上る可しと云ふ今日本國經濟の上より云へば此十八九萬圓金は幾多の人の勞力と合

せて之を水中に投じたるに等しく又企業當局者の私より云へば目下金融必迫の際、銘々こ

の出費を分擔して自から其膏血を絞るに等しく公私兩樣より考へて唯氣の毒と申すの外な

きなり盖し人智は明なるに似て至て暗く况して營利の嚢に蔽はれ空中金殿を朦朧の間に出

現するに至りては意馬心猿走て之れに近かんとして遂に自から顛〔眞+頁〕覆するの例は

此淺間しき人間界に毎度有り勝ちの事のみならず特に彼の鑛山事業の如き俗に所謂山仕事

にして當るも八卦、當らぬも八卦、初めより事の萬全を期す可らず左れば彼の秘露鑛業會

社が物の見事に失敗したるも企業易斷の當て違ひにして必ずしても深く咎むるに足らず現

に西洋諸國にても今を去ること數十年前ザウス シー ポツプル(南洋泡沫事業)とて水

の泡の如き跡方もなき事業に多くの金を熱注して手を燒きたる者少なからず又近くは兩三

年前、米國紐育府に電氣砂糖精製會社なる者を起し秘密室にて角砂糖を碎き電氣の働にて

斯かる良砂糖を生ずるなりとて遂に百萬弗の株金を募り、之を持逃げしたる者もあり凡そ

此類の珍奇談述文明國人の間にも亦た時に出現することあるが故に日秘鑛業會社に就ても

事後の成敗を以て徒に酷薄の評を下すは我輩の好まざる所なれども我輩一片の通俗心は之

れを事前に疑ふて當局者の注意を促したるに日本の紳士紳商として云はゞ人の上に立ち事

業の重きに任ずる者が看す看す之れに手を出して十八九萬圓金を失ひたる其金は輕小なり

とするも此一事、西洋諸國人より我腕前を見すかされ一塲の滑稽茶話として其冷笑を買ふ

に至る是れぞ正しく一種の國辱、唯不面目と云ふの外なかる可し然りと雖ども又一方より

考ふるに彼の日秘鑛業會社が僅々十八九萬圓の損毛にて物の見事に失敗したるは漫然たる

我事業家に向て實に頂門の一針たる可く若しも然らず彼の會社が一時の奇福を攫み得て豫

算通り年益八九割りを占むること能はざるも當座二三割の利益を見ることもあらば利に當

て通俗心を失ひ易き今の滔々たる紳士紳商、爭ふて奇利を南米邊に求め空中金殿を天外に

畫きて其想像を實にせんと段々資本を輸出したる處にて金殿は何時か其影を失ひ失望又失

望、人を誤り己れを誤り結局其損失の今日に幾倍することあるやも知る可らず此一點より

云ふときは今度日秘鑛業會社の脆くも早く失敗したるは所謂不幸中の幸にして此一事大に

我事業家を警醒し人間利外の利あるを信ぜしめざるに至らんか、過ぎたる者は咎む可らず

唯來者を戒む可きのみ我輩の敢て一言する所以のものなり