「生絲荷金融策を豫定す可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「生絲荷金融策を豫定す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

生絲荷金融策を豫定す可し

生絲貿易は日本の財務上に於て大關係あるものなり今假りに横濱において二萬個の絲荷が堆積したりとすれば共價は百斤に付き六百圓とするも殆んど一千萬圓にして其相場上に於て假りに一割の不沈あれば爰に百萬圓内外の損益を生ず可き筈にして當業者の機轉如何に因り僅々一二箇月間に無中より百萬圓を生じ或は有中より百萬圓を空うするの場合もある可し其關係に重大なるものなれば當業者が掛引上萬端配慮して怠らざる可きは勿論、日本國金融の根軸たる日本銀行の向きに於ても生絲荷物に對しては假令へ直接に手を出さゞるも或は正金銀行をして生絲商人と相對して夫れ夫れ金數上の便宜を謀らしむるか或は其他の方法を以て金力の及ばん限り智力のあらん限りを盡し此貿易上に向て非常の便宜を輿へざる可らざるは固より多言を待たざる所なり然るに今日横濱の絲況を見るに此處例年取引不活發の時節とは申しながら金銀値の大變動、需要先の不景氣等種々の原因あるを以て暫時商賣休業の姿と爲り追々各地より輻輳する生絲は倉庫中に堆積するのみにして近日來の在荷は一萬五千梱を超えて將に二萬梱に達せんとし此順序を以て進むときは在荷三萬梱の聲を聞くも蓋し遠きに非ざる可し斯くて絲荷の堆積しツヽある今日、生絲荷主竝に其商人は如何に之を處分す可きや其前途の見込に就き一説に據れば本年歐洲絹織物の需要は兔角捗々しきことなく昨年里昴の機屋より巴里博覽會に出品したる者は今尚ほ殘品として賣先惡しく概して不景氣なるに加へて近頃佛國當業者中に伊太利生絲の關税を減じ之を復舊せんとの説起り其實行も遠からざる可く日本の生絲商人が目下の相違を看過して更に他日を待ちたらば伊太利商人は佛國に又北米合衆國に先きに廻はりて其絲を賣り拔け我生絲商人は結局投げ賣りの窮策に出てゝ今より幾層困難の位地に陷ることある可しと云ふ者あり又かの反對の一説に據れば今や銀値は上向にして外國貿易者に取りては頗る困難の場合なれども今より一二箇月を經て米國大藏省にても兼て公示したるが如く彼の定額の銀塊を買入れ益々その實證を示すに於ては世界各國決心を見拔きて金銀價も其止まる所に止まり斯くて銀が高き儘に其高き所に一定して動かざるに至らば之が爲めに世界の賣買が中絶するにも非ず特に絹織物の如きは云はゞ人間の奢侈品にして價を一二割貴くしたりとて入用の者は矢張り入用にして之を買入れざる可らざるが故に今後歐洲諸國に於て生絲の需要の斷絶せざる限りは直段の高低に拘はらず早晩之を仕入れざる可らざるの時節到來するは疑を容れず且つ今年の盛況を聞くに支那地方の不作なりしは事實固より明白なり伊太利は昨年の不作に比して少しく好作なりしのみ我日本國にても氣候不順等の爲め例年より産額を減じたるは人の能く知る所にして本年世界の生絲類は之を前數年の割合に比して〓〓減少し居るものゝ如し左れば日本の生絲荷主は目前暫時の逆運を忍んで今後一二箇月間は默して之を持張るの策を立て徐に好き價を待たざる可らず云々と云ふ我輩は右強弱二樣の説を聞き何れとも判斷すること能はざれども從來の例を以てするに我生絲荷主なる者は多くは金に餘裕なくして前途の望みを抱きながら一時の窮策已むを得ずして相手に足元を窺はるゝ儘、泣て其荷物を投賣りするなどの場合は毎度珍らしいからざるが故に差向き各地方の荷主と横濱の商人は身を今日の逆境に處して今後二三箇月間は先づ荷物を寢せ置かざる可らずとの胸算を定むること肝要にして活商賣の事なれば中道如何なる變化ありて如何なる處分を爲さゞる可らざるや其は臨機應變なれども兔に角に金融の途を豫算し之を持張るに何程の金を要して其金は何れの處より引出す可きや先づ其邊の問題を定め置くこと實に今日の急要なる可し聞く所に據るに目下横濱の生絲在荷は凡そ一萬五千梱と稱し此荷物に貸出したる金子は多くは横濱生絲商並に土地の銀行の金子にして日本銀行出の金が此部分に關係したるは極めて少額ならんと雖とも追々荷物の増加するに隨ひ日本銀行の筋に向て少しく其金の融通を促せば當方にても不手廻りなりとて兔角出し澁り勝ちの樣子ありと云ふ今日にして此くの如くなれば今後の勢推して知る可し勿論日本銀行の人は我生絲貿易の利害果して如何に大なるや充分承知の事ならんと雖ども横濱の難局に當る者は豫め日本銀行に談じて今より後來の處分案を定め時に臨みて狼狽せざるの覺悟あらんこと我輩が我貿易上の現況に感じて敢て希望し置くものなり