「願くは農商務省を煩さん」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「願くは農商務省を煩さん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

願くは農商務省を煩さん

我輩は前號に於て農商務省が民業を奬勵して新利を興さんとするよりも寧ろ農工商民の後楯となり代表者となりて其道に横はるの妨害を排除し以て斯業の發達を自由ならしむるを本分とすべし而して今の時事問題中には同省が其本分を盡さざる可らざるもの少なからずとて當局者に促す所ありしが再びここに急言して敢て農商務省を煩さんとするは他にあらず彼の特別地價修正案と鐵道、郵船兩會社の命令書更正案に關する事情是れなり蓋し地價の實况を調査すれば同一の地位豊味にてありながら券面の高低は甚だしき差違ありて一見その不公平に驚かざるはなしと雖も地價評定以來幾星霜を經過したるの今日にては賣買の値段によりて不公平も自然に公平を保ち得たるは經濟の道理の觀易き所にして之を強て修正せんとすれば却て財産上の既得權を害するのみならず莫大の費用を要して而も公平を期すること難く人民の憤激を招き政府の信用を失ふに至るや明白なれば苟も政道の逆行せざる限りは斯る議論の通過すべしとは思はれず聞く佛蘭西にても數十年來地價修正論の國會に顯はれざることなしと雖も亦常に否决せられざることなくして恰も一の儀式の如く遂に實行に至らずといふ一般修正にして猶ほ且つ然り况んや特別修正に於てをや唯昔しの券面を比較してフト思ひ出づるまにまに■(つつみがまえ+「夕」)■(つつみがまえ+「夕」)呈出するの議案に外ならざれば我が國會に於ても萬萬可决することなかる可きは敢て疑を容れずと雖も其衝に當れる農民の身に取りては先年も地押調査の事ありて高き地價の低められたるもありし事なれば低きものの高められんも亦測り難き心地して彼の黨略その他種種の事情を聞くに從ひますます容易に安心を决す可らず之が爲め田地賣買か今の季節にも手を空ふして其成行を觀望するのみならず一日の勞働は幾于の所得となるべき實業者の身を以て却て日日の寄合相談に無用の飮食をなし或は委員を上京せしめ或は請願書を呈出する等費す所ありて産する所なきのみか遊手空論の輩は之を奇貨として種種の説を設け飽まで農民の散財を慫慂して以て己れを潤飾するの資に供せんとする者もありて間接に直接に民間の損害は蓋し夥しきものなる可し左れば地價修正の遂に行はるべきや否やは敢て心を勞するに足らずと雖も其疑■(りっしんべん+(上が「目」+下が「大」))の中に釀す所の損害は决して冷眼に看過するを得可らず知らず實業の後楯となり代表者となるべき農商務省は念ふて茲に至りて一片親切の情を催さざるや又會社に對する命令書更正の議案とても我輩の豫て詳論したる如く其影響を受くる者は一會社に非ずして幾多の株主なり幾多の株主に非ずして一般の商界なり蓋し株券は甲より乙に移り乙より丙に移り貸借の抵當となり又その抵當となりて連環運轉極りなければ其損害の及ふ所は廣く且つ大にして喩へば石を池中に投じたるが如く疊疊層層として遂に澎湃岸を打つに非されば巳まず然るを徒に法學書生の口吻を學んで命令書の文字を云云するが如きは殆んど兒戲に類するものにして商安何によりてか托せん經綸何を以てか立たん是も前記の特別地價修正と同じく我輩に於ては萬萬國會議塲を通過することある可からずと信する所なれども商人は猶ほ未だ曖昧不穩の中に迷ひ動もすれば其成行の覺束なきに動かされて爲めに心を傷ましめ金を損すること其幾千なるやを知らず實業の後楯となり代表者となるべき農商務省は念ふて茲に至りて一片親切の情を催さざるや蓋し事の結局の判然信を置くに足らずして中間不測の雲霧に惱まさるるの損害は曾て實業社會にも屡屡經驗したる所にして其最も適切なるは彼のブールス條例なり如何なる故にや先年來これを有無縹渺の間に抛擲して未だ其落着を决せざるが故に各種の商品は相塲所を得ずして其取引を妨げられ經濟の運行を澁滯し商業の發達を沮碍するに非ずや其實施せらるる事なきの最も確實なるブールス條例にても唯半空に懸あるが爲に商界の損害實に此の如くなれば新に世上に現出して囂囂たる地價修正及び命令書更正の議案に對しては假令え道理上行はる可らざるにもせよ當業の農商民たる者が如何にして其疑■(りっしんべん+(上が「目」+下が「大」))の情を一掃し容易に安心を决するを得んや損害の大なるも亦推して知るべきのみ

我輩は農商の利害の爲めに實に之を視るに忍びざる者なり政府に於ても定めて同感ならんなれば宜しく地方長官に内訓して特別修正の决して行ふ可らざる次第を告げ以て民間を安慰鎭靜し又鐵道、郵船兩會社にも同機の筆法を施して速に商安を維持すること必要なれども左りとては又國會を蔑視したりとて却て反動を招くこともあるべく政府に取ては實に難儀の處置なる可ければ爰に農商務省なる者ありて其本望は實業の代表者たるこそ幸なれ公然力を極て動議案を排撃し農商民をして决して其實施の憂なきを信ぜしむる迄に有らゆる手段を盡すべし即ち男子の所爲なり政治家の所爲なり農商務省の必要なる所以、我輩の敢て今日に煩さんと欲する所以にして快刀一揮亂麻を斷ち外には國會に呈出せられたる農商の難論に抗し内には本省より發布したるブールス條例等を撤回して着着此般の方針を進め地租輕■(にすい+「咸」)論等にも及ぼすときは廢省論者も亦まさに背後に瞠若たるべきのみ兎も角も動議案に抗して農商の不安を救ふは焦眉の急なり我輩が農商務省の農商民を安心せしむるに最も有力なるを信じ其一臂を振ふに吝ならざらん事を祈る者なり