「國勢退縮」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國勢退縮」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國勢退縮

地租輕減は國民の多數を休養するの効なくして立國の經綸を退却せしむるものなりとは我

輩の毎に口を放ちて論述したる所なりしが衆議院の大多數は政治家の私情として恰も輕減

の非を知りながら俗論に媚びて地租條例改正の議を唱へイヨイヨ税率五厘を減ぜんとする

に至りたるは國の爲めに計りて誠に歎息に餘りありと云ふべし我輩がツラツラ日本國歩の

艱難を察するに内に釀すの弊根また决して少なしとせざれども危急の勢は實に外より迫る

ものと云はざるを得ず外より迫ると申せば或は清露その他と葛藤を生じて戰爭に及ぶこと

と想像するもあらん歟なれども我輩の恐るゝ所は斯る直接の談にあらず日本國小なりと雖

も豈一朝咄嗟の戰爭によりて俄に命脈を决するものならんや唯西洋列國が頻に競爭してお

のおの富強の度を高め外に向ふの政略年を追ふて勇進するに引換へ吾は背後に瞠若として

益々その平行を失ひ遂に爲す處を知らざるに至るは洵に今日の大患として最も痛心に堪へ

ざる所なるのみ鎖國幾百年既に世界の大勢に後れたる其上に今後も亦列國に先を制せられ

て我國勢を張ること能はずとせば前途の成行果して如何なるべきや是れぞ我輩が常に國民

の决心を喚起し海内に蟄居したる昔時の陋習を脱却して廣く世界に國を立てんが爲め死力

を盡して奮發せざる可らずと切言したる所以にして此急機に處せんとするには唯一の金力

に外なきが故に人民たる者は各自その事業を進むべきは勿論租税の負擔を甘んじて國費を

助け政府も冗費を節減して朝野提携眞一文字に經世の大計を務むべしと云ひしに振古未曾

有と聞えたる國會は更に其邊を思はざるか、内の休養論に汲々として外あるを知らざるも

のゝ如し蓋し國會の人々も國權の大切なるを思はざるには非ざれども鎖國時代の思想は兎

角その腦裡を脱する能はずして唯内にさへ安樂なれば夫れにて事足ると心得、知らず識ら

ず遂に大なる誤謬に陥りたる者ならん况んや其内の安樂と稱する地租の輕減も實際に恩澤

の及ぶ所は多數の小民にあらずして却て地主の懷を温むる成跡を見る可きに於てをや誤謬

を二重にする者と云ふ可し日本の地租重からざるに非ず政府の冗費多からざるに非ず今そ

の重きを忍び其多きを節減するは唯文明の世界に國して勢力を張り榮譽を全ふせんが爲め

のみ試みに思へ今の列國競爭の塲に於て八千萬圓の歳入果して之を大なりと云ふを得るか

英佛諸國の事は容易に企て及ぶ可からずと雖も伊太利の如き我國人の稍や輕蔑するか少な

くも同等視する國にして其土地の面積と云ひ人口と云ひ日本に比して小なるにも拘はらず

彼は凡そ三億六千萬圓の租税を負擔し我は僅に八千萬圓に過ぎずして實に四分の一に充た

ず白耳義さへも殆んど七千萬圓、土耳其とても八千五百萬圓に近し抑も日本は伊太利に比

肩せんとするか土耳其、白耳義たらんとするか伊太利の財政困難は困難に相違なけれども

民力は猶ほ我國の四倍を負擔して鞠躬敢て進まんとすることなるに日本は更に地租の八百

萬圓を減じて一歩を退かんとせり伊國の如きは軍備に汲々として爲に國富に背馳せるの費

用少なからざれば之を我國に傚はんと欲するには非ざれども其國民が國の爲めに負擔に堪

へて屈せざるの勇氣に至ては遺憾ながら本邦人の企て及ばざる所なり我輩は我國民の勇氣

を促がし都て不生産的の事業に向はずして國富を增進するの計を講じ以て立國の急に應ぜ

んと唱へたるに衆議院及び世間の方向は之に反し他國の將に化して龍とならんとするを傍

觀しながら自から三十六鱗に甘んじ池中に潜んで徃く徃くまさに其身を危くせんとせり之

を愛國の情に富むものと云ふべき歟日本は日進の國(Rising Sun)なりとは人も評し吾も

自から期する所にあらずや而して今は却て日退の國たらんとす顧ふに夫の航海業なり殖民

策なり商業なり工業なり將た農業なり之を伸張發達せしめんとするに八千萬圓の歳入を以

て何の力を展ぶる所ぞ地租輕減は右等の急務に應せんが爲めに如何なる効能あるべきやを

一思せよ

然りと雖も衆議院が地租輕減を唱ふるは决して其本心に非ざるべし既に本心に非ずとせば

假令へ一旦これを可决するもイヨイヨ實行せんとする迄には必ず正當の判斷に逢ふて挫折

することあるべし聞く所によれば貴族院に於て率ね之に反對なりと云ひ政府に於ても思ふ

に認可せざるべしと云ふ我輩は風説の果して眞ならんことを立國の爲めに祈りて止まざる

者なり