「貴族院の豫算審査」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「貴族院の豫算審査」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

貴族院の豫算審査

豫算案は衆議院の特別委員が政府と談判の末、六百五十萬圓の減額にて雙方の折合付き衆

議院にては即日これを可决して貴族院に廻附したれば同院にては一昨日の會議に於て豫算

委員に附託し本日午前迄に審査せしむるの議に决したるに付き同院の豫算委員中にも異議

少なからずして既に辭職を申出したるものもありと云ふ衆議院にては殆んど全會期の時日

を費して漸く始末の附たる者を僅々二日間にて審査せしむるとは驚入りたる議决なりと云

はざるを得ず思ふに今や閉會の期も切迫して僅に數日を餘すのみなれば貴族院が成る可く

其期日内に議了して豫算不成立の不幸を免れんとするは左ることなれども國の大計に係る

豫算の項目を僅々兩日間に審査して議會協賛の責任を全ふせんとするは實際に出來得べき

ことなるや否や其事情塲合は兎も角も實際に出來ざることを無理に彌縫して一時の折合を

謀らんとするは寧ろ責任を輕んずるものに非ずやと我輩が貴族院の爲めに惜しむ所なり抑

も事に有形無形の別あり喩へば大工が家を建て左官が壁を塗る如き單に形而下の力を要す

る仕事ならば或は時日を限りて功を見ることなきに非ず即ち請負普請の如きものにして粗

末間に合を厭はざれば短時日の間に一大家屋の建築を了ることもある可しと雖も夫とても

精密の設計を要するものに至りては自から多少の猶豫なきを得ず况んや形而上の精神を勞

して人の腦力に訴ふる事柄に於ては僅々の時日を期して好結果を望む可きものに非ず如何

となれば斯の如きは人の思想を束縛し其自由を制限するものなればなり左れば貴族院が兩

日間を限りて豫算の審査を議决したるは恰も思想の自由を制限したると同樣の奇談にして

請負普請の如き形而下のものならば兎も角も苟も國の大計に關する大問題の議决としては

其理由を發見るするに苦しまざるを得ず或は説を爲して西洋諸國にては國會が幾日間にて

議案を議了したるの例もあれば二日間の審査にても敢て苦しからずとの論もある由なれど

も是れは自から塲合を異にしたる例にて若しも議院が其議案の全體に就き之を可認す可き

や否やとて可否兩斷の塲合ならば一日は愚か一時間の投票にても十分なる可しと雖も今年

の塲合は自から例外にして衆議院より廻附したる議案に對し其款項節目を一々審査して之

を議塲に報告す可しと云ふに在るものなり人民の休戚に關する歳出入の款項節目にして然

かも衆議院に於てに非常の日數手數を經て非常に變更削減したるものを僅々兩日間に審査

す可しとは到底出來得可らざる事にして其出來ざるを知りながら無理にも之を審査せしめ

んと議决したるは如何にしても至當の沙汰とは見る可らず我輩の遺憾に堪へざる所なり抑

も貴族院が豫算案に就き重きを成す所以のものは衆議院の議决したるものを精密に審査し

之に至當の意見を加へ以て案の完全を期するに在り然るに衆議院の有樣を見るに軟派硬派

など種々に黨を分ち數十日間競爭紛議の末に漸く政府と協議して今日の纏りを致したるも

のにして其多數の議决と云ふものも黨派間僅々の差に得たる結果なれば之を以て眞實國民

の多數を代表したるものとは見る可らざるが如し左れば今日に當り國民の希望する所は例

外とは申しながら貴族院が之に對して十分の審査を遂げ其賛成す可きは賛成し修正す可き

は修正し至當の議决を爲すに在ることなるに單に時日切迫の故を以て實際に出來得べから

ざる事を無理にし匇々これを審査して國の大計を輕忽に附するの嫌を免れざるは我輩の取

らざる所にして緩急遲速の違ひこそあれ貴族院の議决は衆議院の爲に異ならずして國事を

弄ぶものなりとの非難を受くるも之に答ふるの辭なかる可しと信ずるなり