「牧羊業」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「牧羊業」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

牧羊業

輸入品中の最多額なるものは綿絲金巾類を第一として其次に來るものはフラネル羅紗ブラ

ンケツト等の毛織類なり一昨二十二年中毛織類の輸入は毛メリヤス等を別にして六百七十

七萬三千餘圓、諸機械の輸入大ならざるに非ず鐵類も亦少なからざれども之を毛織類に比

すれば猶ほ幾十萬圓の差違ありて實に我國貿易上の權衡に關すること容易ならず單に其金

額を見ても之が輸入を防止せん事こそ願はしきのみか從來我國より輸出の品目甚だ多から

ざるが故に一朝輸出重要品の賣行捗々しからざる樣のこともあれば直ちに權衡に著るしき

不平均を生じて其埋合せに當惑すること珍しからず我貿易の不利不安心なれば何とかして

輸出品の數を增し量を增して全體に重きを加へんとは經濟家の常に苦慮する所なるに現に

右毛織類の如き輸入の第二位を占め概して年々に其高を增加するは内に顧みて遺憾の事相

といふべし若しも日本の風土氣候にして所詮牧羊業の發達を期す可らずとせば即ち止まん

苟も然らざる限りは力を極めて之が進捗を圖り夫の巨額の輸入を防ぎて我が國富を增加す

るの肝要なる可し

故大久保利通氏の内務卿たりしとき始めて羊種を海外に求め下總に牧場を設けて飼養を試

み及び各府縣にも貸付せしが當時羊種は未だ本邦の氣候風土に歸化すること能はざりしと

又その管理法、飼養法の宜しきを得ざりしが爲め多くは相踵いで斃れ獨りメリノー種のみ

今に至りて能く蕃殖すと雖も總て牧羊に從事したる者は何れも失敗の談のみにして十年の

經歴一として滿足なる成跡なければ今に至るまで世の實業家も殆んど之を見捨てたるも

のゝ如く牧羊と云へば一も二もなく失敗の意味を含蓄するに至りしこそ遺憾なれ然りと雖

も此等の起伏消長は必竟世態の常にして特り牧羊のみに非ず例へば彼の鑛山事業の如きも

其始め多くは失敗を取り或は空境に金を投じ或は尚ほ早きに採掘する等種々の錯誤の爲め

に産を破り家を傾くるもの所在に珍しからざりしより世に山師と云へば架空の計畫を企つ

る者の異稱となり偶々利を含むの鑛山と雖も疑心暗鬼を生じて之に應ずるの氣色はなく其

状恰も羹に懲りて韲を吹くの觀ありしが學術の漸く進歩するに從ひ近來に至りては山師必

ずしも山師ならざるの時運に赴きたることなれば牧羊事業と雖も亦容易に見捨つべきもの

に非ざるが如し

現今我國にて飼養する羊は總數凡そ三千頭これより得る所の羊毛は二萬封度に滿たず然る

に東京千住製絨所を始め近來はフランネル、ブランケツト又は毛絲等の製造所も起りたれ

ば年々消費する所の毛量は少なくも百三十萬封度内外にして國産の供給は固より以て其一

部分となすにも足らず猶ほ自今毛織事業のいよいよ開進するに從ひ材料の需要ますます多

きに至ることなれば如何に我國の牧羊業は偉大の進歩をなすにもせよ决して販路を得ざる

に苦しむことなかるべき其反對に早く之を振興せざるに於ては外國の輸入獨り增加して

益々その發達を鈍くすることゝなる可し左れば此要用に投せんが爲め爰に牧羊に從事する

ことゝせんに緬羊百頭以上(〓羊一頭二圓少餘にて求め得らるべし)を飼養すれば之に要

する費用は其土地の状况、牧塲の良否及び飼料を得るの便否等によりて一定の算用を立つ

ること能はざれども一頭に付き平均一年七十錢を要するとせば充分なるべし而して之より

収獲する毛量は平均五封度と看做し一封度の代價を二十五錢とするときは一圓二十五錢に

して又その肥糞料を合算すれば更に三十錢以上の収入を增すべし况んや之を屠殺するとき

は其肉代も亦少なからざるをや尤も中途にして斃死する等の損害も亦自から免れ難き所な

れば算用通りの利益は多少傷くることある可きにもせよ之を要するに决して引合はざる事

業には非ずと云ふ蓋し從來牧羊に從事して失敗を取りたる所以は多くは此斃死の爲めなり

と云ふと雖も其斃死とても前記の通り飼養法、管理法及び歸化の度合等種々の不都合より

生じたることなれば今日に於ては大に其成敗の面目を革め漸次發達の運に向ふべきや又疑

を容る可らず失敗は成功の始なり而して今や正に成功の時代に進歩したるものと知るべき

のみ

種牛飼養は方今の牧畜業中最も利益ありと稱せらるゝ所なれども牧羊も亦决して望なきに

非ざるや此の如くなれば尋常農家にても本業の傍に飼養して損毛すること勿るべし斯くて

漸次に一般の流行を促し其いよいよ盛んなるに至ては彼の瑞西諸國に行はるゝが如き共同

牧塲の制に傚ひ大に規模を擴張するも期して俟つべき所にして徃古以來の木綿國は一變し

て羅紗國となり服裝の改良は勞働者に便宜を與ふるのみか直接に國富を增殖するに足るべ