「伊藤内閣も亦見る可きものあり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「伊藤内閣も亦見る可きものあり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

伊藤内閣も亦見る可きものあり

内閣首相の更迭談に就て其候補者に數へらるゝものは西郷伊藤の兩伯にして西郷聞かざれ

ば伊藤を起し伊藤出でざれば無理にも西郷に押付くるならんとは目下一般の評判にて事實

の成行も大抵この邊に違ひなかる可し西郷の進退は姑く擱き伊藤は何故出づるを好まざる

やと云ふに是れも全く他人の想像に過ぎずして當人の心事は知る可らずと雖も先づ事情の

上より臆測するに伯の失敗(所謂政治上の失敗)は年を經ること久しからず其政略の遺物

は今日に存して人の耳目に障るものも少なからざれば一般の人心は未だ全く當時の事を忘

るゝこと能はずして時々これを思ひ出すものある其上に進退出處に忙はしき政治家の常と

して種々の關係より一方に味方を得れば又一方に敵なきを得ず今回の變動にも頻りに伯を

推すものもあれば又非常に反對するものも少なからざる所以にして若しも一身の利害より

云へば今日の機會は未だ出づるの時に非らざるが如し即ち世評も伯の心事を揣摩して其容

易に起つ可らざるを傳ふる由縁ならん我輩に於ても或は然る可しと思ふ所なれども元來我

輩は其人の誰れ彼れを問はず唯今回の首相たる可きものは能く其首相たるの實力を備へて

内閣の組織を全ふせんことを希望するものにして此一點より考ふれば其一身の利害は扨置

き伯にして若しも出づることあらば幾分か此希望を滿すに足るものあらんと思はるゝ其次

第を述べんに今回の更迭談に後任の候補者を求めて何人も容易に引受けざるは今後の困難

思ひ遣らるゝが爲めなりとは云へ今の内閣員中にては其名望技倆は兎も角も如何なる人が

引受くるにしても十分に一個の意見を全ふするの見込なきよりして斯くは躊躇することな

らん事情止むを得ざる次第なれども其候補者の中にて此邊の事情に拘はらず運動の自由な

るものは獨り伊藤伯なりと云はざるを得ず盖し伯にして政府部内の小事情を心に關し又世

間に喋々する毀誉褒貶を苦勞にして只管圓滿無缺の進退を望むときは未だ機會の熟せざる

に相違なしと雖も若しも奮て之に當らんとするに於ては一個の意見を代表する所謂伊藤内

閣を組織すること决して難からざる可し近來伯の民間に於ける擧動が現内閣の人々に可な

らざりしは自からも知る所なる可し而して其愈々起つに當りては今の内閣に一大波瀾を見

て新陳更代の實あるは現當局者も亦既に覺悟する所ならん然るに猶ほ伯に向て望を屬する

もの多きを見れば後任者を得るの困難思ひ知る可くして此一方よりすれば其機會も决して

早しと云ふ可らず世上の毀誉褒貶に至りては以て政治家の心を煩はすに足らざるのみなら

ず伯の機轉變通の才を以てすれば新内閣の新政略は其方向を一轉して時の人心に投じ忽ち

世の評判を移すことも難きに非ざる可し何も掛念するに足るものある可からず即ち機會未

だ熟せずと云へば熟せざるが如くなれども熟せりと云へば既に熟したるものなり要は唯伯

の决心如何に在る可きのみ左れば伯にして若しも决心するときは容易に新内閣を組織して

幾等か今日と形を異にすることある可きや疑を容れず〓〓〓の十分なる所望を云へば若し

も伯が出づると决心するならんには此處一大奮發して更に一大决心あらんことを促すのみ

即ち單純なる伊藤内閣も决して不可なしと雖も眞成なる強有力の内閣を見んとならば單に

其幕下の政治家輩を聯合するに止まらずして更に有力なる二三の老政治家と提携するの心

算を决し大隈井上後藤の諸伯に謀りて相互の間柄を調停し大膽以て平生の恩讐を一夢に附

し去り共に相和して内閣を組織し伊藤自から之を表面に代表して内實堅く相約する所ある

に於ては必ず強硬有力の實を呈して其擧動の活溌なる大に人心を壯にするものあらん我輩

は今日の機會に臨み此大决心を伯に促すものなり