「信任投票と政黨内閣」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「信任投票と政黨内閣」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

近頃民間の政黨中には來期の國會議塲に於て現内閣に對し信任投票を爲す可しとの説ありと云ふ抑も其信任投票は如何なる事件に就て之を行ふものなるや或は彼の大津事件に關し現内閣の處置その當を失したるが爲めなりとの説もあれども彼の事件たる元來政治上の出來事に非ずして既に日露兩帝室間の眞情厚意を以て局を結びたるものなれば今更これを議塲の問題として云々す可きものに非ず左れば政黨の人々が愈々信任投票を行はんとするには何か他に目的の存することならん唯我輩は之を知らざるのみなれども今假りに近來政府の擧動中或は民間政黨の意に可ならずして其人々の目より見れば信任投票を價するの失錯ありとするも今日これを實行して果して其功能ある可きや否やは當局の政黨員に於ても宜く熟考す可き所なる可し我國の國會は開設匆々にして議塲に於ける百般の事も未だ體裁を成すに至らざる程の次第なれば所謂信任投票なるものは如何なる塲合に之を行ふ可きや又その結果は如何す可きや等の問題を決するは容易の業に非ざれども西洋文明諸國の例に據れば國會が内閣に對して信任投票を爲すは何れ其内閣の政略に指斥す可き非常の失錯あるの時にして其失錯に就て之を爲すものなり而して内閣が其投票に對するの處置は自家の失錯果して非常にして國民多數の信任を失ひたるものと信ずるときは自から其地位を去ることもある可しと雖も然らざれば國會を解散し果して信任なきや否やを全國の輿論に問ふの常なり要するに信任投票の一事は政黨内閣の習慣實際に行はるゝ國にして始めて效を見る可きものなり然るに今や我國にても彼の文明諸國の如く一日も早く政黨内閣の實を擧げて代議政治の彼岸に達せんこと我輩の希望する所なれども其これに達するには政府は勿論、民間の政黨に於ても自から其覺悟なきを得ず即ち内閣員たるものは憲法々律の範圍内には常に活〓大膽に擧動して若しも其政略に失する所あれば斷然引退して其地位を民間の反對黨に譲渡すの決心を極め又民間の政黨は豫め黨略を講し部署を定めて政府の政略に失錯あれば一起して之に代るの用意こそ肝要なれども扨事の實際を見るに政府の決心は兎も角もとして今の政黨の人々に果して此邊の覺悟ありやなしや假令へ其覺悟はあるとするも某黨某派の一手を以て今日唯今政府の地位を受取り之に代りて新内閣を組織するの成算ありや否やは大に疑はざるを得ず盖し今の政黨中には固より有爲の人物に乏しからずして殊に陰に陽に其首領とも推さるゝ所の人々には老成の政治家も少なからざれば實際に於ては新内閣の組織に左までの差支ある可き筈はなけれども世間の人情は兎角地位名望を重んじて假令へ有爲の人物と雖も容易に其實價を認むるもの少なきが故に黨中二三の人々は兎も角も其黨派の一手持切にて新組織を全ふするは今日の事情に於ては先づ以て未可なりと云はざるを得ず如何となれば假りに今の政黨の人々が此邊の事情を顧みず強ひて一手持切の組織を企て幸にして目的を達したりとするも斯る内閣は到底その地位の鞏固なるを望む可らずして寧ろ政治上の混雜を惹起すの外なければなり况んや事の實際に於ても國會の開設匆々政黨の運動も未だ實地の練習を經ざる今日に前後を顧みずして政黨内閣を強行するが如き斯る急激の變化は到底行はる可らざるに於てをや我輩は政黨内閣を望むに切なりと雖も國の長計の爲めに無謀の急變を好まざるものなり左れば政府の處置の當否は姑く別問題と爲し彼の信任投票の如きは大に注意を要す可きものにして今日の有樣にては假令へ之を行ふと雖も實際に寸效なきのみならず適ま以て民間政黨の無謀無力なるを表白するに過ぎざる可し之を喩へば信任投票は武士腰間の秋水の如し容易に之を拔かずして拔けば必ず人を斬るの覺悟なかる可らず今政黨の人々が國會の議塲に於て投票を試むるも政府は之が爲めに毫も動かざるのみならず一般の輿論も亦これを傍觀して痛痒相感せざるが如き不幸あらんには恰も拔刀して人を斬らざると一般、武士の面目を損するものと云はざるを得ず其人々の爲めに取らざる所なり左れば民間政黨今日の策は其名を謀らずして其實を務め大に世間の人望を收めて容易に動くことなく一たび動けば必ず他の急所を衝て目的を誤らず以て次第に政黨内閣の實に近かんこと其急務なる可し信任投票決して急ぐ可らざるなり