「東京士人の生活」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「東京士人の生活」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

今の東京に住居する官員又は紳士紳商と稱する人人は多くは維新後に各地より居を移したるものにて元來江戸出生のものとては甚だ稀れなる可し是等の人人こそ即ち今の東京士人なれども扨その士人の生活の有樣を察するに我輩の所見に於ては當を得ざるもの甚だ多きが如し徳川幕府の時代に江戸は全國の繁華を集め殊に數百年來太平の餘澤にて上下ともに花車風流を專とし春花秋月物見遊山に餘念なく殆んど人間界の快樂を極めて人生の艱難を知らず禍の最も恐る可き火事の如きも之を江戸の花と名け却て小民の賑と爲りて益益商賣の繁昌を致し「鐘一つ賣れぬ日はなし江戸の花」など唱へたるは即ち當時の有樣なりき是時に當りて各地方の人人が參勤交代の爲め又は其他の事を以て江戸に來るものは恰も生れながらにして極樂界に入りたると同じく烟花風月ただ其遊を縱にして以て此上もなき快事と爲し之を江戸の土産として郷里の人に誇る者もなきに非ず即ち當時地方人の江戸に來るは一世一代の出來事にして其一身に取ては千載の一遇とも云ふ可き程の次第なれば平生の生活は所謂御國風にして極て質素簡單なるに似ず千歳の機會に一遇して極樂界の快樂に狂するも亦謂れなきに非ざるなり今の東京は即ち昔の江戸にして維新革命の後は大に其體面を改めたれども花車贅澤の風習は一國の首府たる中央都會に免れざるの數なるか近來は益益その甚しきを加へて徳川太平の時代にも劣らざるの景况を呈し茲に住居する士人の有樣を見れば官員と云ひ紳士と云ひ尚ほ其以下の後進書生輩に至るまでも衣食住の有樣は都て分外に逸して錢の貴きを知らず入るを計らずして出るを爲すものの如し蓋し此種の人人は偶然に故國を出でて偶然に東京の人と爲り花の都を見て依然たる舊時の極樂界と心得、却て今は永住の身にして一時の客に非ざるの實際を忘れ所謂千載一遇の快樂を永久にせんとするの誤想より斯る狂態を演するものならんと雖も一生の思ひ出にて極樂界に遊びたる時と既に其地を永住の塲所と定めて一身の計を爲すの今日と境遇の異なるは現に其人人の身に實驗したる田舍の生活を回想しても今の計の非なるを發明し今吾故吾相比して轉た赤面に堪へず况んや其今吾の計も分外に逸して前途の運命危きに於てをや益益赤面の至りなる可し又徃時の江戸全盛の日と雖も花車風流の贅澤に狂したるものは三百年の太平に文恬武煕に馴れ果てて其本性を失ひたる旗下の一類か若しくは其餘澤に浮世の榮華を受けたる御用商人の輩に非ざれば適ま地方より江戸に來り一時の快遊を試みたる者共にして眞實眞面目の生活を爲して業を營む者は生來都下に住むと雖も斯る狂態に及びたるものはある可らず如何となれば人間營生の實際と極樂樂園の快遊とは兩立す可らざるものなればなり左れば今の士人流にして自から改むる所を知らざるに於ては早晩歡、極まり哀、生ずるの末路に到着す可きこと數理に於て免れざる所なれども我輩の所見を以てすれば其人人の浮沈盛衰の運を別にしても更に大に憂ふ可きものあるが如し凡そ一國の強弱は其國民の心身如何に由るものにして國民個個の心身惰弱なるときは國勢の隆盛は得て望む可らず而して人の心身をして惰弱ならしむるの原因は花車贅澤より甚だしきはなし彼の多年涵養の氣象を以て關ケ原の一戰に天下を略取し徳川幕府の基を開きたる三河武士の士風を腐敗せしめたるは三百年間太平の奢侈贅澤に外ならず即ち今の東京人士が各地方より起り政治上に實業上に彼等に代りたるは恰も其心身の惰弱に乘して之を倒したるものなり幕府滅亡王政維新は國内の更迭に過ぎざれども今後外國との交際も益益頻繁に赴き内地雜居等の行はるる其時期に當りて若しも我國にて政治社會に實業社會に要衝の地位に當るものが次第に心身の惰弱を致し更に子孫に遺傳して其弊を極むるに至るときは或は一國の獨立に關しても窃に杞憂に堪へざるものなきに非ず今日より大に戒しむ可き所のものなり左れば東京人士の生活の有樣は單に一身一家の爲めのみならず國家獨立の■((「黒」の旧字体のれんがなし+「占」)+れんが)より見るも今後大に反省を要す可き所にして先づ第一に惰弱の風を警むると同時に更に進んで心身の活溌健康を致すの方法を講ぜざる可らず彼の避暑旅行の如き或は平生の疲勞を慰して氣力を養ふの功能も少なからざることならんと雖も我輩の所見を以てすれば氣力の養成は必ずしも之を遠きに求めず又これを一定の季節にのみ限る可らずして寧ろ平日の心掛に在る可きを信ずるなる例へば府下の近郊に射的塲を設けて射的の術を習ひ或は常に乘馬を養ふて春野秋郊に遠乘を試み又或は端舟を用意して河海に遊山競漕を爲すなど其方法は種種なる可しと雖も詳細は次號に讓り我輩は兎に角に今の東京の士人が生活の有樣を一變して自身及び子孫の爲めに心身の活溌健康ならんことを勉むるは獨り一身一家の幸福のみに止まらざるを信じ敢て一言するものなり