「震災地方は今正に災害の最中なり」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「震災地方は今正に災害の最中なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

本月十五日震災地よりの來書を見るに震後の災はいよいよますます甚だしく將來尚ほ恐る可きものあるが如し書中の大意に

北山地方は北方村より北の方越前界に至るまで凡そ十八里の間、揖斐川筋の兩岸に沿ひ山も谷も悉く崩壞して其土砂は恰も山腹に懸り落ちんと欲して未だ落ちざるものあり既に落ちて河床を埋めたるものあり數百箇所の多き逐一計ふるに遑あらず此有樣にて一兩出水の事もあらば土砂は悉く下流に押流されて北方村より以南の揖斐川筋は忽ち河床を高めて其高さは堤防の上に出で水は堤外に溢るる外に路なかる可し

右の次第にて兩岸の山山に生茂りたる樹木も悉く倒れて山は一面の禿山となり道路も斷絶して人の徃來〓〓さ〓地震後一時は手入して道を開き屈強の男子なれば二斗位の米を負ふて僅に徃來したれども十一月二十七日より引續き雪の爲めに土砂を落し今日の處にては北方村以北は先づ不通の姿となり同村より東横山まで凡そ五里の間にても徃來頗る難澁を極め夫れより又北の方十餘里間は人間の歩を進む可らず口山の處にても樫原村などは既に米麥食鹽の缺乏を告げ貧富の別なく餓死に迫る有樣にて郡役所警察所にては專ら救濟の計畫最中なり吾吾は今日まで北山地方に左程の被害あらんとは思はざりしに右の報告に接して唯驚くのみ

又揖斐川の水源に當る徳山村は山の入口より十餘里の奧に在ることゆゑ必ず無難ならんと思ひ居りしに昨今の報知に據れば同村の内大字塚村は戸數三十戸の處雪の爲めに山嶽崩壞して二十六戸の人も家も地下に埋沒し他の村村も多少の害を被りたるよし

又揖斐川の流水は赤く濁りて濁水と云ふよりも泥水と申して然る可し斯く泥水を押流す中には泥は自然に河底に沈澱するの外なし杉野村邊の舟子の申す處を聞くに地震後今日に至るまで河底の埋まること三寸乃至五寸なりと云ふ通常の流水にて既に斯の如し一朝洪水の變もあらば如何なる大災害を致す可きやとて沿岸の村村は來春後の事を豫想して恐れざる者なし云云

右は去る十五日附の書翰にして書中の所記唯人の心をして寒からしむるのみ爾後又聞く所に據れば從前桑名の海口より揖斐川へ潮水の上ること凡そ四里半ばかりのものが地震後は上流七里の處にまで干滿を感ずることになりしと云ふ固より精密に測量したるものにはあらざれども潮水の上流に上ること遠きは地盤の下りし徴候なりとて恐るる者多し若しも今度の地震にて濃州の平原一面に地盤の低落せしこともあらんには左なきだも常に排水に難澁する地方が更に其地盤を低くしたりとあれば實に容易ならざる出來事なり

又古來の口碑歴史に徴するに揖斐の川筋は凡そ二百年毎に一變するの例にして河底に土砂を埋めて次第に淺くなれば隨て兩岸の土堤を高くして水の溢るるを防ぎ天然の土砂と人口の堤防と恰も互に競爭して河心の壽命を維持し遂に人力の及ばざるに至りて大破裂と爲り水は最低地を求めて新に河流を成す其間凡そ二百年なりしが今の揖斐川は既に四百年を經て正しく一倍の壽命を重ねたるものなれば平常の有樣にても隨分危險なる尚ほ其上に前に云へる水源の山嶽崩壞とありては四百年の老大川その終に臨んで如何なる大變を生ず可きや兎に角に地方の運不運は來年の雪解けと〓雨の時節とを待て始めて知る可きのみ

以上は單に揖斐川に關する報知なれども此他の二大川木曾長良を始として幾多の大小河流は何れも大同小異の有樣なる可し我我が都會の地に居て安らかに眠食すればこそ左までに感ぜざれども試に我身を岐阜大垣に置て想像を運らしたらば如何ある可きや死者は未だ葬らず負傷者は未だ癒えず幸に死傷をば免かれても身外無一物にして今日の生活に苦しむ尚ほ其上に今年の雪、來年の雨を思へば身は渦まく水の底に居るに異ならず凡そ人生に不幸多しと雖も其不幸の殘酷にして區域廣く且つ安心を得るに容易ならざること震災地方民の如きは未だ曾て聞見せざる所なり過般來我輩は毎度罹災者に面會して其物語りを聞く毎に落涙自から禁する能はず斷腸消魂果ては唯默して無言に止むのみ人誰れか惻隱の心なからんや此心ありながら他を度外視するは畢竟事の實際を詳にせざるに坐する者なれば我輩の願ふ所は政府を始めとして國會の議員も民間の有志者も姑く政治上の私情を去て同胞の不幸を憐み其不幸の中にも聊か安心を得せしむるの工風ありたきことなり其箇條に就ては追追論する所ある可けれども理窟の議論は後にして先づ人人の至情に訴へんが爲め聊か爰に一言するものなり