「撰擧演説」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「撰擧演説」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

撰擧演説

衆議院議員總撰擧の期日も既に定まりたるに就ては各地方の候補者は何れも運動を始め其

競爭の有樣は日々の新聞紙上にも見ゆる通り頗る盛なるが如し左なきだに撰擧の競爭には

世間の人氣とかく熱度を高むるの常なるに今回は昨年の解散の行掛りとして政府も民黨も

互に多數を制せんとて非常の意氣組なるが故に更に一段の景氣を添へたることなる可し競

爭の爭熱既に極度に達するときは雙方共に平生の心得を忘れて知らず知らず過激に走り演

説の句調なども自から亂暴に渉るは事の行掛りとして怪むに足らず西洋立憲國の中にても

英國の如きは夙に政黨政治の習慣を成して其爭は最も穩和の聞えあれ共實際の樣子を聞く

に撰擧の競争は又格別のものにして平生は穩當着實の老政家又は名士と云はるゝ人々にて

も其演説中徃々過激の句調を帶びて吾も人も之を怪まず平日ならば咎む可き言語も撰擧の

演説なればとて一般に看過するの風なりと云ふ蓋し撰擧の爭は堂々たる政治上の爭とは云

ふものゝ實際に就て其有樣を見れば撰擧區と名くる狹少なる區域の中に撰擧人を名くる數

千百人のものを相手にして我に投票せよ否な我を撰擧せよとて相爭ふものにして然かも其

數千百人は〓〓の程度も一樣ならずして所謂明言半ばするの人種にこそあれば其眼前に於

て當撰を爭ふには自から鄙近の言語を用ゐて全體の耳に入り易きを旨とせざる可らず我に

於て既に然るときは彼に於ても然らざるを得ず雙方の言語互に過激に渉りて平生の態を失

ふに至る所以なる可し左れば我國に於ても既に國會を開設して議員撰擧の競爭を許したる

以上は其競爭の演説中に多少不穩の語氣あるも一時の勢に免かれざることと覺悟して取締

上にも一時特別の手加減するこそ却て穩當の道なれ若しも然らずして尋常一般の塲合と心

得、その語氣の平日に異なるを見て特に處分を嚴にするが如きこともあらば之が爲めに一

般の人心を激して其結果は妙ならざるものある可し新聞紙の記する所を見れば昨今撰擧競

爭の最中、各地方の演説などには往々過激の言を爲すものありと見え中止解散の處分に遇

ふもの多きが如し時に取りては中止解散も止むを得ざる手段なれども昨今の塲合に頻々こ

れを使用するときは他の一方に於ては之が爲めに反動の情を催ほし演説以外の手段を用ゆ

るに至ることなしと云ふ可らず當局者の正に注意す可き所なり我輩の兼て述べたる如く今

回の撰擧に政府が奮發して大に競爭するは可なれども其競爭の手段は苟めにも正當の界を

踰ゆ可らず各地方官を始めとして其部下の警察官などが職權を誤用して撰擧に干渉するが

如きこともあらば即ち正當の界を踰えたるものにして政府の方に於て既に自から界を踰ゆ

るときは民間の政黨が非常の手段を用ゆるも之を責むること能はざる可し演説の中止解散

の如きは法律に由りて行ふものなれば自から別問題なれども實際に於ては警察官の手加減

一つにして其取締の寛嚴如何に由りては一方を保護すると同時に一方を妨ぐるの結果ある

ものなれば此際最も注意せざる可らず若し萬一微妙の間に依怙贔負の沙汰もあらば我輩は

青天白日これを攻撃するに躊躇せざる可し抑も撰擧の競爭に過激の言語を用ゆるは相互の

事にして其孰れを咎む可きに非ず殊に局所の事に就て見れば誠に掛念す可きものあるが如

しと雖も大體の方向は既に競爭前に定まりて容易に動かす可きに非ざれば微妙の手段を用

ゐて之を妨げんとするときは實際に其功なきのみならず却て他の反動を招きて不覺を取る

ことある可し故に政府に於ても大體の决心既に定まる所あるに於ては區々たる演説の攻撃

などを心に掛けず過激亂暴の語氣あるも撰擧演説の常なりとして之を大目に看過し大膽に

構ゆるこそ却て得策なる可しと聊か勸告する所なり