「國會難局の由來」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國會難局の由來」(18920128)の書籍化である『国會の前途・国會難局の由来・治安小言・地租論』を文字に起こしたものです。

本文

明治二十四年、第二期の國會解散して、今正に再選擧の用意に忙し。政治上の一小波瀾に過ぎざれども、國の安寧の爲めには不幸にして、之を人身に喩えて云えば、無事に眠食すべきものが俄に病を發したるの状に異ならず。然るに凡そ人身の病は、その發するの日に生ずるに非ずして、病を釀すの原因は必ず發病の前に在るを常とす。中毒症の如きその急なるものは原因も發症も明白なれども、時として慢性の中毒に遭うては、病因の詳ならざるが爲めに醫師の苦心すること多し。左れば今度の解散を視て單に急性の中毒と認め、議會が漫に政府に反對したるが故に直に解散の症状を現わしたりと云えば誠に簡單にして、一時その毒を排洩すれば病も亦除くべきに似たれども、我輩の診察する所にては議會の反對は發症の近因にして、之をして反對せしめたる遠因は數年の以前より釀して、全く慢性の中毒即ち政府の不養生に由來するものなりと斷定せざるを得ず。既往の事を陳べて恰も政府の人の拙を擧るはその人に取りては愉快ならず、我輩とても今更ら他の前非を喋々するは甚だ好まざる所なれども、之を云わざれば今日政治上難局の事情を詳にするに由なし。止むを得ずその病の發端とその年來の不養生とを略記して、以て現症の治療法を講究せんと欲するのみ。本來我輩の心の底に一點の怨恨あるに非ず、他の病に乘じて之を苦しめんとするに非ず、唯その病の輕からざるを告げて、大に今後の治療攝生に注意せしめんとするまでの老婆心なれば、その邊は政府の人々に於ても我輩の平生を信じて猜疑する勿らんことを祈るものなり。

抑も今度の解散は政治社會の難局にして、特に國會に發したるが故に、假りに奇語を用いて之を國會病と名づけ、その國會なるものゝ發端を語らんに、明治十三年春の頃より全國各地の有志者が、國會開設の建白又請願とて社を結び黨を集めて頻りに奔走し、又或は東京府下にても何社何會と稱して雜誌、新聞紙等を發兌し、暗に地方と聯絡を通じて結合を謀り、處々に演説者を派出する等、自から人心を動搖せしめて、政海何となく穩ならざるより、政府にてもその建白請願の煩わしきに堪えず、又その人心の動搖を傍觀すべきにもあらずして多少心配の折柄、當時の當局者中にて智謀の名ある大隈、伊藤、井上の三氏が發意にて、明治政府は迚も專制の一方にて押通すべきにあらず、衆庶會議とは維新の時の定論にして、先輩の木戸、大久保諸氏の如きも素志の在る所はこの定論より外ならず、左れば吾々が今日斷然國會開設と方針を定るは、維新の精神を實にして且は先輩の遺志を繼ぐことなれば、この事に盡力せんとて三氏協同一致してその用意に忙し。或は内閣中の同僚に語り、又は閣外の長老にも謀りて、之に應ずる者もあり、應ぜざる者もあり、或は應否相半にして決せざるものもありて、兎角論勢の未だ決せざるその中に、明治十四年の春過ぎ夏來れども國會開設の議論は容易に定まるべきに非ず、情實政府中に無理ならぬことにして、三氏の苦心想見るべし。然るに同年の八月初旬、北地御巡幸の事ありて、大隈氏は供奉にて出發の留主中、伊藤、井上の二氏は政府中の論勢を察して、遂に事の成らざるを悟りたることならん、國會開設は輕〔率〕卒に行うべき事柄に非ずとて、大隈氏の正反對に立ちたり。神ならぬ身の大隈は夢にも之を知らず、留主中も相替らず伊井兩氏は百事に苦心周旋しつゝあらんと思いの外、十月十一日、還幸の即日辭表を促がされたるこそ氣の毒なれ。傳え云う、大隈氏は十四年夏の頃、國會の事に付き何か上奏したりしに、その上奏の時に伊藤、井上、二氏に相談せざりしより、二氏が之を不滿足に思うて交情を破りたりとの説もあれども、是等は當時の細事情にして、固より以て雙方破交の原因とするに足らず。我輩の推察する所にては、三氏協同して事を謀りたる中に、大隈は何處までも素志を達せんとて一方に進行して止まざるその反對に、伊藤と井上は政府部内の形勢を視察し、ことを視察することいよいよ詳なればいよいよ事情の困難なるを發明し、迚も叶わぬ事を企てゝ失敗するよりも、此處は志を飜して姑く忍耐するに若かず、大隈へは氣の毒なれども政治上の事は止むを得ずと、強いて自から慰めたることならんのみ。尚お當時の紛紜に就ては我輩の聞き得て詳なるもの多しと雖も、事都て祕密に屬し、今更これを公言して人を苦しむるは君子の事に非ざれば、態と之を略して云わず。扨右の次第にて大隈氏の辭職は隨分無理なる行掛りに生じたることなれば、之を辭職せしめて更に政府の方針を堅固にせんとするには、その辭職の果して必要に出たる所以の理由を表白せざるべからず。是に於てか當時の官海中に種々無量の説を作り、針小の事を棒大に言囃し、無根の風聞に騷立つその有樣は、火元も見ずして半鐘を鳴らし、火事よ家事よと觸廻わりて消防の用意するものに異らず、その群集混雜の中には、眞に之を火事と信じて驚く者もありしならん。又或は本來火事なきを知りながら、態と評判のみを製造して竊に之を利したる者もあらん。誠に無稽至極の所爲にして、一時の政變の爲めに止むを得ざる計略なりと云えば云うべきなれども、堂々たる一國の政府を維持するの本法に非ず。政府を一身として視れば攝生法の宜しきものに非ず。我輩は今日と爲りて政府の爲めに謀れば聊か赤面する者なり。

前條に云える如く、大隈氏を擯くるにはその理由なかるべからず。又これを擯けたる後に政府の方針を固くするの工風も要用なるが爲めに、種々の風説流言を作るその中に、大隈は政府の祕密を漏らして云々の説もあれども、尚お有力なる口實とするに足らず。依て爰に福澤翁と三菱社とを持出し、翁は兼て大隈と懇意なり、而して翁の素志は政府の地位を得んとするに在りて、後藤などゝも相識る樣子なれば、その先きに板垣とも同説ならん、加うるに三菱會社の謀臣と稱する者は、悉皆福澤の學塾より出たる人物にして、翁と三菱社長、岩崎彌太郎氏とは特に親友なるが故に、今度の一條は福澤が謀主と爲り、大隈が政府部内に働き、その金主は即ち三菱社長にして、既に何十萬圓の運動費を支出したりなど、取ても付かぬことを云う者あれば、朝野の小人等はこの機會を利せんとて八方に奔走し、人の家に出入して茶話を聞き、友人の顏色を瞥見して臆説を作り、去て權門を叩て注進密告すれば、流言ますます流れて底止する所を知らず、事情紛々の間に、大隈の辭職に伴い、福澤の朋友にして官に在る者は大抵皆放逐せられたるこそ奇態なれ。又同時に三菱會社も攻撃せらるゝこと甚だしく、種々無量の難題を吹掛けられたる末、彼の有名なる共同運輸會社の設立より、次で兩會社の競爭、又次で和睦合併の爲めに莫大なる國庫金を失うたるも、その本を尋れば唯烟の如き流言より流出でたる政府の失策にして、畢竟するに當時在朝の人々が獨り自から悶着して、相手なしに獨角力を演じたるものに過ぎず。十年後の今日に至りてその狂熱も既に已に散じ、心を虚にして當時の樣を想起したらば、世間に對して面目なく、慙死啻ならざる人も多かるべし。斯くて政府がこの混雜の最中に、明治二十三年を期して國會を開設すべしと約束したるは不思議なる出來事にして、全體を云えば政府の基礎を堅固にするとあるからには、大隈氏を除くのみにて相替らず功臣政事の方向にこそ進むべき筈なるに、左はなくして國會開設とは前後不揃なるに似たれども、竊にその時の事情を推察するに、開設に贊成もあり不贊成もありて容易に決すべきに非ざれども、兎に角に人文進歩の世の中に何時までも國會を拒むべきに非ず、今より二十三年に至るその中には、又自から時勢の變遷もあらんなどゝ、唯十箇年の長日月を頼みにして、扨こそ決斷したることならん。之を要するに開設論の決したるは正しく政變の最中にして、恰も政海の病氣中に姙娠したるものなれば、二十三年の誕生後に多少の病あるは當然のみならず、全九箇年の姙娠中に胎毒を釀したることも亦決して少々ならず。今その胎毒の次第を陳べんに、

政府は大隈氏の在職中に發したる國會論を輕〔率〕卒なりとして固より之を悦ばず、又同時に民間の論勢を視察すれば甚だ穩當ならざるものも多し、斯くては大政府の政權を維持するに困却の次第なれば、何は扨置き行政萬端、都ての事を引締めて内外の浮薄輕躁を止めざるべからずとは、當時政府の論勢にして、之を概評すれば果斷強硬、無遠慮の舊筆法を再演したることにして、假令いその間に二、三智謀の人物ありて竊にその非を悟るも、勢に制せられて自家の意見を伸るに由なく、抂げて他の無遠慮説に雷同するのみ。是即ち一方に國會開設を約束しながら、他の一方に於ては官民の調和を謀らざるのみか、却てますます之を隔絶せしむるが如き政略を施して、民心を損じたる原因なりと知るべし。先ず教育法に就てその政略の現われたる所を見れば、智育徳育と申す中にも、新政略の實施以後は專ら徳育の方に重きを置き、然かもその道徳の標準は儒教主義を根本にして、横文の書など讀むを悦ばず。各地の學校長を任ずるにも、多くは老儒碩學と稱する古風の人物を求めて、支那流の古學を再演せしめ、甚だしきは開港場の商法學校に英書を教授せんとして容易に許可を得ざりし奇談さえあり。他は推して知るべし。又文部省にては學校用の書籍を檢査し、民間の著書に就き、此れは讀むべし、其れは讀むべからずと、逐一これを取捨するが故に、利に走るは人情の常にして、凡そ學校用に採用せられんことを願う者は、本心にもなき窮屈至極なる道徳の頑固論を記して官邊の意を迎え、國中到る處に徳育書を見ざるはなしと云うまでの極に達したることあり。尚おその上に、文部省の目的は官私教育の權柄を一手に握らんとの内意にてもあるか、その私學に干渉すること甚だしく、苟も私立の學校を助けざるのみか、常にその成立繁盛を悦ばずして、動もすれば、不便利を與うるが故に、凡そ日本國中の私立學校にして、政府の筋の處置に甘んずるものとてはあるべからず。即ち政府は全國無數の私學生の歡心を失うたるものなり。又明治十四年後は特に集會條例の實行に急にして、人民の集會演説等に種々の不便利を感ぜしめたるのみならず、我輩が殊更に注目する所は、申すも恐多き彼の不敬罪を以て罰せられたる者が、十四年以後に最も多かりし一事なり。抑も我國民は眞實順良なる者にして、殊に帝室に對し奉りて尊嚴を知らざる者なし。そのこれを知るや教られて然る後に知るに非ず、世々の遺傳に由來して、三歳の童子にても、天子樣と申上れば即ち之を人類以上の神體と心得て中心より拜み奉るの國風にして、王代のそのむかしより唯の一人も不敬の罪を犯したるものなかりしに、近年始めてその罪人を見るとは如何にも長大息に堪えざる次第なれども、尚お一歩を進めて考れば或はその罪人は一時の發狂にはあらざりしや、精神錯亂して瓣舌咄なるが爲にあられぬ事を口走りたるにはあらざりしや、若しも然るときは之を一室に幽閉して全快の時を待つの法もありしならんと、我輩は毛頭その罪を恕するには非ず、唯我神聖なる帝室を重んずるの餘りに遺憾の懷を述るのみ。法律の密なるが爲に罪人の數を増すは、醫術の進歩に從て病を發見すること多きに異ならず。唯その際に要は誤用を愼むの一事のみ。

中央政府の政略、既に果斷の趣を示すときは、地方政事の之に應ずるは響の聲に於けるが如く、各府縣の地方官が人民に接するの筆法も、自から面目を改めざるを得ず。民に教るに常に篤實柔順の旨を以てしながら、施政は次第に活溌の色を添えて漸く事務の繁多を致し、命令規則、日々に新にして際限あることなく、教育の脅迫、風俗の取締りとて、動もすれば人民の私に立入り、戸籍の調査、婚姻死生の屆、相續の法、家産讓渡の手數等、その他百般の民事に就て繁文の煩わしきこと實に名状すべからず。時に或は統計上の要用なりとて、飼馬の年齡を問い、牛の數を計え、樹木の大小員數より、甚だしきは川に漁する魚の數、畑に出來たる大根、人參の數までも調査せらるゝことあれば、又時として衞生の爲めに溝の檢査、雪隱、芥溜の構造を差圖する者あり。又地方旅行の人の目には必ず觸れたることならん、彼の田舍の諸商店は勿論、露店同樣の飮食店より無商賣の農家に至るまでも、何か役場の燒印押したる版を掛け、是れは何々の免許、夫れは々の章など稱して、その多きは一戸の表に五、六枚を見ることあり。又人力車の塗色、車夫の衣服を制限し、村の祭禮に異樣の服裝相成らずと禁じ、盆の躍に夜更けて唄うを禁じ、社地の相撲、寺内の芝居、戲れの興行にても、正服の巡査は嚴重に構えて之を監視し、唯その遊戲の興を薄くするに足るべきのみ。明治の初年に地租を改正して辛苦作り得たる地券は今日反故に等しきと同時に、正租、地方税の繁雜は日々に甚だしく、一郡役所より發する紙片は一年何十萬の數に上り、片々皆人民の腦を刺衝せざるはなし。その税の輕重は姑く擱き、心事簡單なる小民の身に取りては、朝々暮々衝かるゝが如く刺さるゝが如くにして、その不愉快は譬えんにものなし。猫額大の空地を耕して芋を作れば地目變換の出願を促され、十圓ばかりの家産を讓り渡さんとすれば、登記願、公私の諸雜費に十餘圓を失うことあり。凡そこの種の繁文、徒費徒勞の事實を計れば枚擧に遑あらず。苟も時是れ黄金の道理を解したる者ならば、國家の不經濟に驚くことならん。苟も人民に對して愛嬌の大切なるを知る者ならば、爲政者の拙劣を歎ずることならん。尚お是れよりも甚だしき地方政の無法を申せば、各地に流行する道路修繕、市街裝飾の一事なり。文明交通の要用よりして新道を開き舊路を修るが如きは咎むべきに非ざれども、民力不相應の大工事を起してその費用に苦しみ、果ては獻金と名づけ寄附と稱して強いて民財を集め、表面は民意の如くに取成して内實は地方官の嚴命に等しきものあり。或は必要もなきに道の幅を廣くせんとして山を缺き田地を埋るのみか、人家立竝びたる市街にて無遠慮にも毎戸の軒先きを剪りて、恰も住慣れたる人の家を不具の姿に變ずるもあり。又は家の改築を命じてその日限を定め、聽かざる者は官の手を以て家を毀つべしと嚴達するものさえあり。各府縣共に大抵皆同樣なる中にも、先年、福島縣地方道路の如きはその最も劇烈なるものにして、當時これが爲めに大に民心を動搖せしめ、事態紛紜その影響波及する所甚だ廣く、地方上流の士人にして罪を被り獄に下りし者も甚だ少なからず。その當局者は無論、地方一般の人民は徹骨の怨として今に至るまで之を忘るゝこと能わず。思うに東北の人はその性質温順なるにも拘らず、近年頻りに政論に熱して政府に反對する者多きは、福島縣道路の一條與りて大に力ありと云わざるを得ず。彼の地方とて官吏が人民に接して施す所の教育説諭等は、例の如く篤實柔順の旨を以てしたることならんに、寸分の效を奏せずして事態全くその反對に出でたるとは、誠に氣の毒なる次第にして、政府の人も既往を懷うて悔ゆる所なきを得ず。凡そこの類の地方政事は專制の甚だしきものにして、武斷政と名くる封建の時代にも容易に事例を見ざる程の次第なるに、明治政府は一方に國會開設を約束し、國民と共に協力一致して國事を謀らんと明言しながら、その國民を御するに毫も憚る所なきのみか、恰も一時の好事心に乘じ、故さらに平地に波を起して民心を失わんことを是れ勉るが如き跡あるこそ不思議なれ。之を評して開設の準備したるものとは云うべからざるなり。

又中央政府に於ては常に外國に對して條約改正の念を斷たず、之が爲めには當局者の全力を盡して遺す所なし。外人をして我法律に服從せしめんとするには、自からその法律實行の體裁を改ること必要なりとて、是に於てか法律改正の論を生じたり。その筋にて宣言する所を聞けば、人文の進歩に從て改正の要に迫りたりなど云うと雖も、我輩の私見は決して然らず。その監獄法を改正し、新法典を發布し、裁判所構成法を作りたる等、根本の在る所は條約改正の爲めならざるはなし。如何となれば彼の法典の如き、理窟に於て美なるべしと雖も、我國民の習慣に於て俄に之に應ずるを得ず。強いて之を行わんとすれば民心に背くものなるが故に、目前に國會の開設を見ながら、國民の歡心を失うが如き政略は、政府の勉めて避くべき所なるに、之をも顧みずして斷行せんとしたるは、條約改正の爲めより外に理由の在る所を見ざればなり。然るに條約改正は中止して前途の如何を知るべからず。法律改正の結果は今尚お存して國民に歡ぶ者なし。國會開設の準備、巧なりと云うべからざるが如し。 明治十四年の政變以後、政府の方針は百事を引締めて浮薄を止ると稱し、云わば頑固の方に傾くものゝ如くなりしかども、人文進歩の世の中に頑固論の永續すべきに非ず。彼の儒教主義の如きも唯一時の發作にして漸く勢力を失い、三年を經ずして復た舊時の進歩風に還ると同時に、政府はますます條約改正の事に忙しく、兎角外面を裝わんとするの熱心より、端なくも官海に豪奢の風を生じて、間接に天下の人心を損じたること少なからず。有名なる鹿鳴館の新築に引續て、上等官吏の爲めに特に官宅を設け、その結構の壯大美麗なること人の耳目を驚かさゞるはなし。家屋既に壯麗なれば、之れに住居する人の衣服飮食等も亦これに伴うべきは自然の勢にして、内には數多の婢僕を養い、外には交際の體面を張り、婦人の西洋服裝に幾千圓を費す者あれば、一夜の舞踏會に幾百圓を抛つ者あり。鹿鳴館の宴に一人前の飮食は十圓以上を費し、百名の集會なれば一席にして中人十家の産を空うすべし。是等の風聞は忽ち地方に傳えて一般の耳に達し、田舍の貧寒、都下の榮華、近きを目撃して遠きを想像すれば、地獄と極樂と相隣するの感を爲して、心中、平ならんと欲するも得べからざるなり。又官吏社會に於ては既に肉體有形の豪奢を恣にしたりと雖も、有形の慾を達すれば同時に無形の榮譽を求るも亦人情の自然にして、是に於てか位階昇進の風潮を催おしたり。抑も位階なるものは古來我專制政治の時代に行われて、その時代には自から必要にてありしも、人文漸く進歩して立憲政體の談さえあるその時に當りて、特に之を心頭に掛るが如きは我輩の素より感服せざる所なれども、その議論は他日に讓り、兎に角に位階は榮譽の物なりとして、古來の慣行に從えば容易に取扱うべき物に非ず。一階の位記も之を重んじ之を愛しむの常なりしに、明治十四年を界にして其以後の樣子を見れば、位階の昇進頻りにして、官吏社會は殆んど一般に立身したるものゝ如し。例えば維新の元勳、國家の柱石とて朝野に持囃されたる故西郷隆盛翁の如きは、一種特別の譯けを以て正三位に位して絶倫と稱せられたりしに、十四年後に至りては正三位必ずしも貴きに非ず、西郷の末流門下生にて三位以上に上りたる者あり。寒貧の一書生にても三位、四位に進むは甚だ速にして、その數も亦甚だ多し。官民尊卑の懸隔ますます甚だしと云うべし。在朝の長老輩は尚お是れにても足らざるを覺えたることならん、新に華族を作ることを工風して、公侯伯子男の五爵を分ち、維新の功臣と稱する輩にしてこの榮爵を授けられたる者、前後九十人に近し。實を申せば維新の初めに四民同等など特に喋々して門閥の舊弊を一掃したるその本人が、僅に十數年を經て却て公卿大名の古色を裝うとは不可思議至極の出來事にして、苟も天下の人民に記憶の力あらんには、この新華族を見て怪しまざる者はなかるべし。又この一條に付き甚だ立入たることなれども、序ながら記すべきは、右の人々が華族に列すると同時に、各々巨額の恩賜金を辱うしたるの一事なり。恩賜とあれば固より難有仕合にして、辭すべきに非ず、又愧ずべきに非ざれども、その事の世間に公然ならずして官報にも曾て記載せしことなきは我輩の遺憾とする所なり。故三條太政大臣が職を辭したるとき、年金五千圓を賜わる旨は官報に特筆して、新華族の恩賜金は遙に五千圓よりも多きに拘わらず、世間に之を知る者なし。或は賜金の性質に於て之を公にすると否との成規もありて然ることならんと雖も、左るにても恩賜の大なるは取りも直さず受恩者の身の榮譽にこそあれば、何とか方便を求て之を天下に表白するの法もありしならんと、我輩は今に至るまで釋然たるを得ず。凡そこの種の事柄は世人をして疑念を抱かしむるの媒介にして、事に益なきのみならず、官民調和して立憲の政體を維持せんとするの場合には、苟も人民をして疑わしむるより不利なるはなし。當局者にしてこの邊に心付かざりしは、國會開設の準備に迂闊なるものと云うべし。

竊に案ずるに、官吏の位階を進め又新華族を作りて恩賜金の澤に浴せしむるが如きは、都て官吏社會の喜ぶ所なれば、當局智謀の老政治家が、政海の物論を鎭靜してその歡心を得んとするの方略にてもありしならんか。この略、決して愚ならず。例えば昔年の藩政などにて有爲の士がその志を伸べんとするに、唯君公の寵遇を蒙り藩士の歡心を得れば能事終りて運動自在なりしことなれども、立憲政體の事情は之に異なり。假令い政府部内の人望を收めても、外に向て廣く人民の心を得ざれば、事を爲すに足らざるのみか、時としてはその内の物論を鎭靜する所以の方略が、遇ま以て外の人心を損するの媒介たることさえ多し。新奇に語を作れば、内の歡心を收るものを官望と云い、外の人心を得るものを民望と云う。官望に汲々として民望の如何を度外視する者は、共に立憲の政治を語るに足らず。官望の圓滿なるを恃み、得々政府の上に立て横風に人民に臨むが如きあらんには、我輩はその必敗を保證する者なり。

政府の人々は、既に肉體の豪奢を逞うし、又雲上の榮譽を專にし、政府と名くる小乾坤の内に得々として、人民社會を度外に差置き又眼下に見下し、官民の間は日にますます隔絶して互にその情を通ずるに由なし。下流一般の小民等は、唯遙に天外の樣子を傳聞するのみにして、特に心を動かすにも非ざれども、中以上の種族にして多少の教育を受け又例の政治論に熱する輩は、青雲の外に他事なき者なれば、在朝の人の得意なるほどに自から失意を感じて、羨望の情、禁じて禁ずべからず。發して新聞紙の論説と爲り、演説會の詭言と爲りて、動もすれば政府の弱點に中るもの多し。然かのみならず凡そ人間社會の情態に於て、公平の論は不平の人より生ずるの常にして、彼の演説、新聞の言論も大抵皆公平無私の如くに聞ゆるが故に、之が爲めには政府の人も大に困却したることならん。明治二十年の歳末に至り保安條例を急發して、東京府下の士人を一時に追放したることあり。抑もこの種の發令は焦眉の急に迫りて府下の安寧を維持する爲めの臨時處分なれども、當時の實際に於て果して焦眉の危險ありしや否や、我輩は今日に至るまでも之を明言すること能わず。その前後に官邊の人の聲言する所を聞けば、府下の各所に潛伏する不逞の徒は、容易ならざる大事を謀りて何時に破裂するやも計る可らず、或は兇器を弄ばんとする者あれば、暗夜に乘じて市中に放火せんと企る者ありなどゝ、如何にも恐ろしき風聞のみにして、斯る陰險なる者共に退去を命ずるは至極尤ものようなりしかども、その退去の後より今に至るまでの事情に注意し、又その退去人の擧動を視察するに、何れも政治上に不平を抱く者には相違なきが如くなれども、直に腕力に訴えて兇暴を働くべきものとも思われず。政府の人々も、最早や今日と爲りては、當時の急發令を目して、事實止むを得ざるの救急策に出たるものなりとして、之を辨護するには聊か苦しむの意味あるべし。左ればその時の實際を想像するに、政府の人々が探偵の報道に誤られ、針小の事を棒大に認めて無益の運動したるものか、又は事實の無根を知りながら、例の如く火事よ火事よと騷ぎ立ち、故さらに活溌の運動して人の膽を奪うと同時に、政府部内の一致を固くせんとするの方略にてありしか、斯の如きは即ち政府が自から示威運動を試みたるものと云うべし。何れにしても國會開設を三年の短日月中に見掛けて、當さに民心の調和を謀るべき政府の上策とは受取り難し。例えば男女相互に婚姻を約しても、その婚期に近づけば近づくほど益々相親しむの常なるに、明治政府は國民と國會を約しながら、その會期の近づくに從い故さらに威光を示して之を服從せしめんとしたり。その状恰も威を以て婚するが如し。奇なりと云うべし。

又竊に案ずるに、政府の人が斯くまでに傲慢横風なるは解すべからざるに似たれども、俗世界の俗情を考うれば亦自からその理由なきに非ず。種々無量の事情を以てその人の知見を遮り、得意ならざらんと欲するも得べからざるの勢あればなり。その一例を示さんに、地方官吏が管内を巡廻し、又は中央政府の貴顯と稱する輩が各地に往來することもあれば、到る處に待遇の鄭重なること、府縣知事は舊時の領主の如く、屬官亦御奉行樣に異ならず。況んや大臣などの場合に於てをや。送迎の人は數里の道を奔走して、隨從の車馬百を以て計え、旅館に投ずれば知事、書記官來り、郡長、縣會議員伺候し、地方の有志者も亦御機嫌を伺い、賓客座に滿ち門前市を成して、その面會する所の人に聞けば、地方の情況萬歳なりと云い、或は不平歎願の筋を申出す者あるも、一言これに説諭を加うれば忽ちその言に服して退き、大臣の言う所として感心せざる者なく、その爲す所として敬服せざる者なし。是に於てかその心に謂らく、地方の人民御するに難からず、中央政府の人望圓滿なりと、獨り自から信じて疑わざると同時に、顧みて自身を省みれば、本來國の爲めに盡すの誠意に於て、毫も愧る所なきが故に、いよいよますますその信心を堅くすることにして、無理なき次第なれども、唯恨むらくはこの種の官吏が世態の裏面を知らざるの一事のみ。地方の人民が府縣官を厚遇し、中央の貴顯に鄭重を盡すと云うも、その人民は如何なる種族の者なるやと尋れば、官途奉職の爲め又はその他の關係より、恰も義務を以て禮儀を盡し、媚を獻ずる者にあらざれば名聞熱心の士人等が、單に府縣官に交り貴顯に直接するの榮譽を利し、その威光を笠に着て暗々裡に凡俗社會を壓倒せんとするの小計略に過ぎず。何れも皆爲めにする所ある者のみにして、苟も不覊獨立の大意を解し、他人の熱に依るをとせず、又これに依るの必要なき者は、官吏社會の人を度外に置き、悠々獨立の家に居て獨立の業を營み、同志同臭の人に交りて二念なきが故に、政府の人は到底獨立の士に逢うの機會を得ず。然り而して是等の人物こそ眞に國家の脊骨とも云うべき者なるに、之を知らずして國會の約束九箇年の間を得々經過して思う所なかりしは、立憲政體の攝生法に背くものと云うべし。

然るに爰に驚くべきは、我憲法の完全にして國民の權利を重んじ遺す所なきの一事なり。凡そ世界各國に憲法多しと雖も、眞に文明の精神を籠めて善美なるものは我憲法を除きて他に多きを見ざることならん。日本の人民は百千年來、專制政府の恩威に御せられ、その屈して伸びざるときは、百姓共は門訴、駕籠訴とて領主の屋敷の門に詰掛け又は老中の往來を要してその駕籠に願書を投ずる等、苦しき手段を運らし身を殺して始めて願意を達したるの故事さえ多きその反對に、憲法の寛仁大度は青天白日に民意を陳ぶべしと云う。國民一般の之を感佩するは無論、中以上の政論者と唱うる輩は、開闢以來空前の好時機としてその心に期する所の大なるも亦謂れなきに非ず。國會開設後の事態は憲法發布の日に於て早く既に前知せられたり。

以上縷々論じ來る所は、明治十四年以來、政府に行われたる失策を枚擧するのみにして、その政策の得たるものをば態と言わざりしかども、我輩は本來政府に反對して自から樂むものにあらざるが故に、虚心平氣にその施政の如何を視るときは、失策中見るべきものも亦少なからず。例えば文部省の學事の如き、その會計の浪費濫用を論ずれば實に沙汰の限りなれども、高尚なる教育は次第に進歩して、諸外國に對するも大に愧る所なきに至りしは、學問の一面より見て國家の美事と云わざるを得ず。軍事も斯くの如し。法律も亦斯の如し。電信、郵便、鐵道の如きはその發達の最も著しきものにして、殊に外國の交際法に至りては、條約改正の談判こそ毎度失敗したれども、内外關係の全體より觀察を下すときは、世界に對して我日本國の重きを成したるの事實は之を爭うべからず。畢竟我人文の進歩と貿易の發達とに由て然るものなりと雖も、外交官の勉強も亦與りて大に力ありと云わざるを得ず。例えば去年、大津の事變とて、數年來我外交の體面を改め、世界中の見る所にて日本國の重きを知る者多ければこそ、圓滑に局を結んで、日露の交際も全きを得たることなれ。若しもこの大事件をして、舊幕府の時代か若しくは維新の初に在らしめなば、一時の間違いよりして如何なる椿事を引起したるやも計るべからず。この一事に證しても外交の進歩は明に見るべし。故に今の政府は自から省みて必ずしも恃む所なきに非ず。唯その自尊横風の癡情を去り、大膽磊落の間に固く政權の柄を握りて、巧に天下の人心を籠絡し、愛嬌一偏に心を用いたらんには、國會の開設も必ずしも苦勞の種にあらずして、或は無事に其の成績を得たることもあるべきに謀ごとこゝに出でずして、二十三年の近づくに從い、開設の準備とて只管會計の整理にのみ手を着け、この貸附金は斯の如くして、その年賦口は云々の始末にせんなど、俗に云う帳面前の都合のみに心配して、用意既に調い、イザ開場に至るも恐るゝに足るものなしと安心したるは、果して策の得たるものなるや否や。我輩は當時に在て毎度國會の準備論を記して當局者の注意を促したれども、曾てその心を動かすに足らざりき。

右の成行にて約束の如く二十三年の末に開けたる第一期の國會は、恰も政府の不養生中に生れたるものにして、その初生兒の性質も亦甚だ穩ならず。三百議員中の大半は先ず以て文明の教育に乏しき人物にして、左ればとて古風一偏の天保翁にもあらず、能く言い能く論じて喋々囂々たれども、その言論は必ずしも近く國家の實利益に適切ならず、唯多年の感情よりして政府を困却せしめんとするものゝ如し。例えば議員等が主として論ずる所は地租輕減の一事にして、その理由を聞けば斯民休養と稱して、一切の政費節減論も目的の在る所は唯この休養の外ならず。即ち貧困なる小民を救わんとするの意なれども、地面の税を減じたればとて、永年の間に遂に之を利する者は小民に非ずして、却て富豪の利する所と爲り、土地兼併の弊害を生ずべしとの〔理〕現由を知らず。西洋の經世學者中にも國土は國家の公有にすべしとの議論あるなどのことには少しも心付かず、唯地方民の意を迎えて減租云々を聲言し、我日本歴史上の由來をも問わずして、國庫第一の税源を輕〔率〕卒に投棄せんとするが如き、農家選出の議員とは申しながら、その言う所概して淺薄にして頼母しからず。尚おその上にも彼等の目的とする所は、唯政府に反對するの一方にして、或は三百議員中、卓識の士も少なからざれば、大に見る所もありしならんと雖も、何分にも多數に決する議會のことなれば、多勢に無勢は如何ともすべからず、遂に不味の間に閉會を告げて、去年の冬に至り第二期の國會を開きしに、會の氣焔は一層の熱を増して反對の聲を高くし、又その反對員の數を多くし、凡そ政府より提出したる議案とあれば、利害得失の分り切ったる事柄にても、殆んど全會一致の勢を以て之に反對するその趣は、蟲氣ある小兒が病にじれて人の言うことを聞入れざるものに似たり。實に困り果てたる帝國議會にして、斯くなる上は如何なる政府も辛抱すべきに非ず。遂に斷然解散を命じたるも是非なき次第なりと云うべし。

扨右の如く解散と爲りたるは國會病中急症の發作にして、その發症の原因は政府と議員と雙方の孰れに在りて孰れか理非と尋れば、今日の事實に現われたる所を以て診斷するときは、固より議員の非にして更に辨護の辭なしと雖も、議員その人を見ずして議會全體の論勢を人心運動の現象なりと認め、凡そ人心の定則に於て、斯る原因あれば斯る結果を生じて、その應報を誤らざること、酒を飮で醉い、茶を喫して眠られざるが如く、萬病必ずその病因あるが如しとの道理を思案するときは、解散の遠因は、政府が國會の開設を約束してより以來九箇年のその間に、官民調和の注意を忘れて、正しくその反對の方針に向うたる不養生に在りと云わざるを得ず。即ち政府は飮ましめたる者にして、國會は人心運動の定則に從て醉うたる者なり、醉うて狂したる者なり。然り而して酒を飮ましめたるは過去のことにして、醉狂は目下の事なり。過去は之を追うて甲斐なし。故に我輩は明治二十三年を界にして前後を分ち、前を專制政治の時代として、後を立憲政體の世と爲し、假令い前代に施政の非あるも、その非はその時代に許されたる非なれば、前非を喋々して現政府の信用如何を斷ずるを好まず。唯二十三年後の政策にして立憲の精神に背くこともあらんには、遠慮なく之を論破すべきのみ。その政策果して宜しからずして國事を托するに足らずとの明證もあらば、一切の議案を否決して信任投票も亦可ならんと雖も、法律一偏を根本にして數理の範圍内に運動すべき國會が、漠然たる感情に制せられて自から禁ずる能わず、恰も怒に乘じて政府を攻撃すれば、政府も亦唯既往の施政を辨護するものゝ如くにして目下の政策を明言せず、政權維持の膽力に乏しくして、却て他の怒る者を惡んで之を怒り、性急に事を決してますます難局に陷りたるが如きは、共に我輩の感服せざる所なり。

明治二十四年十二月二十五日、衆議院は解散を命ぜられて、再選擧は本年二月十五日と定まり、各地方共に今日は選擧の準備最中なり。今度は政府の方にても聊か超然の主義を改め、自家同臭味の人物を擧げんとし、民間の或る部分にても實業に縁近き議員を出さんとて盡力する者あるよしなれども、何分にも政府積年の不人望にして、之に反對するは人民の義務の如くに心得る者多く、且又政府の筋の擧動も頗る不活溌にして、遺策少なからざるが故に、いよいよ召集の日に於て、民間黨と政府黨と孰れか多數なるべきや、容易に之を斷ずべからず。扨斯る事態にして、今後國會の容體如何を豫診すれば、

第一 今度選出の議員に政府黨の數多くして議場を制すれば固より論なし。假令い或は民黨に多數を占められても、政府黨中に人物多くして種々樣々に方略を運らすときは、民黨の中にも自から熱度の低き者あり、又初めより中立の人もあるが故に、この類の議員が變じて政府黨に入ることもあるべし。果して然るときは今度の議會は圓滑に局を結ぶべし。或は今後も同樣の有樣なれば、政府はいよいよ得意にして、行政の運動自在なるべしと雖も、今の當局者は既に身の重き習慣を成して民間の事情を知らず、愛嬌を以て人望を收るが如きは迚も望むべき所に非ざれば、假令い一期を無難に過るも、その心事の根底より變化せざる限りは、長く議會に多數を制することは叶わずして、その中には圖らざる邊より政變を催すことあるべし。

第二 世間に豫期するが如く、今度の議會にも民黨の多數を現わして相替らず反對の勢を張り、理にも非にも唯行政の運動を妨げんとすること前會の如くならんには、政府は餘儀なく復た解散を命ずることならん。或は民黨の中に智謀の人物ありて時の勢を察し、十分の多數を占めながらもその勢力を濫用せずして竊に和議を申出し、政府中にも亦これに應ずる者ありて寛大の意を示し、官民雙方共に體面を全うして雙方にて内閣員の候補者を定め、例えば改進黨、自由黨は各その首領を出し、政府よりは俗に云う黒幕の長老などを出し、約束を堅くして新政府を組織すれば、所謂聯立内閣を見るべし。この事に付き唯困難は、一方に民黨の求る所過分にして、他の一方の政府は自から守ること堅きに過ぎ、又その雙方の候補者が小膽にして平生の恩讐を忘るゝこと能わず、益もなき所に力身て相容れざるの一事に在り。豫診の最も難き所なり。

第三 民黨常に多數を占め、政府の運動を許さずして和議を講ずるの意なく、政府は唯その實力を頼みにして、假令い和せんとするものあるも却けて之を容れず、徹頭徹尾、解散の一本槍を以て敵に當るの覺悟を定め、今度の議會も不穩なれば之を散じ、又その次會も同樣なれば又之れを散じ、幾度にても際限なく、恰も國會を度外に置くの勢を示すときは、民黨の激昂は固より論を俟たず、種々無量の計略を運らして政府を困却せしめんとするその中に、黨の組織とて甚だ不完全にして、又黨員に老練の士も少なく、殊に血氣の壯年輩が事を急ぐが爲めに、意外の失策を演ずるは勢に於て免かるべからず。然るに政府の方にて之に應ずるの方法如何と尋れば、從來の手際に徴するに隨分失策も多かるべし。民間の失策と政府の失策と打當れば、物論はます喧して、施政は常に澁滯せざるを得ず。是に於て我輩が不祥の想像を畫けば、武斷政治の出現、是れなり。武人の思想は至極簡單なるものにして、平生は政治などの事を念頭に掛けず、且その心事も潔白なるが故に、恰も無慾にして常にその分を守ると雖も、世の物論の餘りに騷々しきが爲めに、漸く首を回らして政治社會を見れば、紛紜の底に沈みて定まる所を見ず。一切萬事、建るが如く倒すが如く、掘るが如く埋るが如く、曾て取留めたることなき尚おその上にも、政治上の議は時として武邊の本領を犯さんとするの痕跡さえあれば、武人の短氣自から禁ずること能わず、元來言論の文弱輩にして、不案内なる軍事にまで喙を容れ、差圖がましき事を申すとは奇怪千萬なり。畢竟政治家と唱る者共が私の爲めに國家を弄ぶものなり云々とて、己が無慾淡泊の心を以て錯雜極まる政策の内事情を速了し、一片の熱情遂に破裂して政治社會の全面を蹂躙し、所謂武斷政治の變相を現わすなきを期すべからず。武人にして國權を執ればとて必ずしも劍を以て人を殺すに非ず。その心事は誠に優くして民を憐むの情に乏しからずと雖も、如何せん思想の簡單なるが爲めに、その見る所常に近くして永遠を謀ること能わず。時としては不相應なる大事業を起し、又時として些細の錢を愛しみ、結局會計の要を誤りて又法律を輕んずるのみならず、或は一朝の怒に乘じて外交の變を生ずることなきを期すべからず。然かのみならず武斷政治の勢に走りて之に近づく者は、壯年血氣の武骨男子に非ざれば文弱佞諛の小人にして、何れも大事を誤るの媒介たらざるはなし。故に國會病の餘症、遂に武斷に發するは、文明世界の大不幸にして病の危險に陷りたるものと云うべし。

國家一度び武斷政治の不幸に陷るときは、之を救うこと甚だ易からず。維新以來も文武の間に境界を明にして相互に踰ることなからしめんとするには多少の困難に逢い、政治家の最も辛苦したる所なるに、一朝の間違よりして二十餘年の今日、更に武斷の再生を見んとは呉々も殘念至極なりと云うべし。前節に云える如く明治二十三年以前は專制政治の時代にして、今の政府の人は恰も一身にして前後の二生あるものなれば、前生の事には關係なしと云うも、左るにても十四年より二十三年に至るまで九箇年の間、立憲政體の準備にあるまじき不養生を犯して國會病を釀し、その病勢の豫後甚だ穩ならずして、療法の如何に由りては武斷政治の難症にも陷らんとするに立至りしことなれば、假令い法律上に咎むべき箇條なきも、自から省みて徳義の心に愧る所のものなきを得ず。左れば我輩が毎度紙上に論じたる如く、多年官海に生活して政治上の名利を專にしたる者は、大に覺悟を改めて民心を和するの工風なかるべからず。凡俗世界に止み難き羨望の俗情を慰るが爲めに、族爵位階等の虚飾を脱却せよと勸告したるが如き、青雲に飛翔して餘念なき貴顯輩の意には適わざることならん、迚も行われ難しと云うことならん。我輩固より彼等の戀々たる癡心を知らざるに非ず、大人能く小兒の戲に耽るの事情を解せざるに非ずと雖も、社會の安寧の爲めに國會病の難局を醫するの一法なりと合點したらば、その割愛は即ち國家に盡すの義務なるべし。凡そ今日に在りて恐るべき武斷政治の劇症を豫防する爲めの手段とあれば、その大小輕重に論なく、假令い或は無益ならんと思う所の小策にても、念の爲めに之を試るは經世家の事にして、抑も亦國家に深切なるものと云うべし。故に政府當路の人々は、眞一文字に民黨に敵することを爲さずして、却て之を籠絡するの工風を運らし、先ずその身を卑くし又輕くして交を政府外に求め、その方便としては身躬から世間に奔走して上流社會の事情を明にするのみならず、或る部分の表面は美にして内部の存外に美ならざるものもあれば、一時の權道に内々黄白の物を用るも可なり。要は唯愛嬌の一偏に在るのみ。數年前專制の時代なれば、貴顯の一言以て大利害を左右したるの例もあるが故に、權門に出入して主公の鼻息を伺い、又誠實に忠義を盡す者も多かりしことなれども、近來、法律規則の嚴密なると共に、國會の議論も喧しきに從い、貴顯の言に重きを置くこと復た舊時の如くならず。その言重からざれば之に由りて利する所も亦多からず。利益の目的なき處に近づかざるも亦人情の常にして、當路の人は次第に舊友を失うの時節なれば、今後は別段に交際法を開き、更に新工風を運らして新友を求めざるべからず。又右の如く愛嬌專一と云う中にも、政權維持の一段に至りては、現政府の本分として固く執て動かざるこそ政治家の事なれ。實は前國會の解散に臨みても、我輩が十分の所望を云えば、單に議會の反對を聞流すのみに止まらず、政府は大にその反對論に反對して、先ず詳に自家政策の針路を説き、この針路に從えばこの議案を通過せしめざるべからず、民利國益を根本として議會が政府の政策に反對するは國家の長計を知らざる者なりと、丁寧反覆に議論を盡し、消極的に他の反對論に答えて申譯け同樣の言を爲すよりも、我れより進んで積極的に議會を攻撃し、縱横無盡に論破して之を壓倒せんことを試み、尚お是れにても聽かざる處にて始めて解散を命ずることもありしならんには、今日の再選擧にも政府の意見は天下に明にして多少の效力あることならんと、我輩の遺憾に思う所なり。左れば延引ながら今日にても、政府がその政策の方針を明にして天下に公にするは大切の事なるべし。畢竟するに當路者が專制流の虚威虚飾に戀々して政權維持の本分を忘れたるものと云うべきのみ。又民黨の人々もその本來の目的は現政府を倒して之に代らんとするより外ならず。即ち今の反對劇論も唯取て代るの方便として見るべきものなるに、然るにその劇論の結局は、政治社會の紛紜と爲り、又政務の澁滯と爲り、遂に武斷政治の不幸に至ることもあらんには、果して取て代るの時節到來するも、その取り得たる處にて武斷政府の末席に伴食するが如き樣にては、之を評して目的を達したるものと云うべからず。他人の家を占領せんとして、先ずその家の内に虎を放つが如し。首尾能く占領し得て之に轉居せんとするも、家中に咆哮する虎の處分を如何せん。我輩は民黨その人の爲めに憂るのみならず、天下永日の大患として悲しむ者なり。左れば民黨の人も事と品とに由りて政府に反對するは敢て咎むべきに非ざれども、少しく前後を思慮して言行を愼み、空論を以て實害を招くの拙を爲さゞるこそ智者の事なれ。例えば前會に於ても政府より提出したる議案中、緊急敕令の件又は監獄費、鐵道案の如き、通過して差支なきものは直に通過せしめ、或は多少の修正を要するものは懇に修正を加え、以て議員が空論に走らずして民利を重んずるの實を示し、又彼の豫算案に就ても多少に削減するは可なりと雖も、毎條毎項必ずしも浪費に非ざるのみか、時としては必要の費に足らざる箇條もあるべければ、斯る箇條には議會の方より却て費用の増額を促すほどの精神を以て、先ず政府をして安心せしめ、一方の果して冗費にして疑うべからざるものゝみに止まり、大に削減論を執て動かざることもありしならんには、政府は假令い苦痛を忍んでも議會の議決に從わざるを得ず。即ち帝國議會が九鼎大呂の重きを成す所以なれども、その方略こゝに出でずして、却て政府をして解散の口實を得せしめたるは、議員等も今日に至りて始めて後悔することなるべし。

右の次第にして前期の解散は議會員の失策にして辨解の辭あるべからずと雖も、政府も亦多年の拙を盡して目下の難局を招き、今尚お宿夢の醒覺せざるもの多ければ、雙方共に心事を一轉して、今度の國會をば首尾能く經過し、尚お前後の謀に怠る勿らんこと切望に堪えず。若しも然らざるに於ては、我輩は政府も議會も國の爲めに功徳少なきものとして之を敬重するの意なき者なり。

國會難局の由來畢